林銑十郎(読み)ハヤシセンジュウロウ

デジタル大辞泉 「林銑十郎」の意味・読み・例文・類語

はやし‐せんじゅうろう〔‐センジフラウ〕【林銑十郎】

[1876~1943]軍人。陸軍大将。石川の生まれ。朝鮮軍司令官・教育総監陸相などを経て昭和12年(1937)首相となり、内閣を組織したが選挙大敗、4か月で総辞職

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精選版 日本国語大辞典 「林銑十郎」の意味・読み・例文・類語

はやし‐せんじゅうろう【林銑十郎】

  1. 軍人。陸軍大将。石川県出身陸軍大学校校長、近衛師団長、斎藤・岡田内閣の陸相を歴任、昭和一二年(一九三七)首相に就任。日ソ危機を強調し、臨戦体制を提唱したが、選挙で大敗し四か月で総辞職した。明治九~昭和一八年(一八七六‐一九四三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「林銑十郎」の意味・わかりやすい解説

林銑十郎
はやしせんじゅうろう
(1876―1943)

陸軍軍人、政治家。明治9年2月23日、石川県金沢に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、日露戦争に従軍。1913年(大正2)ドイツに留学、以後イギリス駐在を経て、国際連盟陸軍代表、歩兵第二旅団長、東京湾要塞(ようさい)司令官、陸軍大学校長、近衛(このえ)師団長を歴任。1930年(昭和5)朝鮮軍司令官となり、満州事変勃発(ぼっぱつ)に際し、関東軍に呼応して独断で満州に出兵、「越境将軍」の異名をとった。1932年大将に進み教育総監兼軍事参議官に就任、1934年には斎藤実(さいとうまこと)・岡田啓介(おかだけいすけ)両内閣の陸相となり、軍内派閥の統制派に擁立される。1935年皇道派真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監罷免問題を起こし、相沢事件で辞職。翌1936年の二・二六事件後、予備役となる。広田弘毅(ひろたこうき)内閣ののち、1937年2月内閣を組織するが、予算成立直後に突然解散した、いわゆる「食い逃げ解散」の総選挙で与党が惨敗して、4か月で総辞職。1940年内閣参議となり、大日本興亜同盟総裁などを務めた。昭和18年2月4日死去。

[粟屋憲太郎]

『林銑十郎著『林銑十郎満州事件日誌』(1996・みすず書房)』『佐伯平造著『宰相林銑十郎』(1937・静軒会)』『樺山友義著『林銑十郎』(1937・北斗書房)』『塚田昌夫著『林内閣』(1938・近衛内閣編纂所)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「林銑十郎」の意味・わかりやすい解説

林銑十郎
はやしせんじゅうろう

[生]1876.2.23. 石川,金沢
[没]1943.2.4. 東京
陸軍軍人,政治家。第四高等学校 (中退) を経て陸軍士官学校,陸軍大学校を卒業。日露戦争に鴨緑江軍参謀として出征した。 1906年参謀本部員となり,歩兵連隊付,韓国駐屯軍司令部付などを経て,13年ドイツに留学。第1次世界大戦が起るとイギリスに移り,16年帰国した。その後,久留米俘虜収容所所長,歩兵第 57連隊長,国際連盟陸軍代表,歩兵第2旅団長,陸大校長,近衛師団長,朝鮮軍司令官などを歴任。 31年満州事変に際しては,関東軍に呼応して朝鮮駐屯軍の一部を独断で越境させて問題を起した。 32年教育総監,34年斎藤実内閣の陸相として入閣,続く岡田啓介内閣でも陸相に就任。 36年,二・二六事件で予備役となったが,37年広田弘毅内閣の総辞職,およびその直後の宇垣一成の組閣流産のあと首相に推され,同年2月内閣を組織した。林内閣は日中関係の改善を目指し,第 70議会で突如抜打ち解散を断行。政党に打撃を与え一挙に親軍与党の拡大をねらったが,選挙で大敗し,わずか4ヵ月の短命内閣に終った。首相辞任後内閣参議をつとめ,のち大日本興亜同盟総裁となった。

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「林銑十郎」の解説

林 銑十郎
ハヤシ センジュウロウ


肩書
第33代首相,陸相

生年月日
明治9年2月23日

出生地
石川県金沢市

学歴
陸士〔明治29年〕卒 陸大〔明治36年〕卒

経歴
日露戦争に従軍後、大正2年ドイツに留学、4年から1年間イギリスに駐在。その後、7年歩兵第57連隊長、14年歩兵第2旅団長、昭和2年陸大校長、3年教育総監部本部長、4年近衛師団長、5年朝鮮軍司令官を歴任。6年満州事変の際、独断で朝鮮軍を旧満州に越境派遣し問題となる。7年大将。同年教育総監を経て、9年斎藤内閣の陸相に就任。続く岡田内閣にも留任したが、皇道派を排して統制派を登用したことから相沢事件が発生、辞任した。12年2月広田内閣総辞職後、宇垣内閣が陸軍の反対で流産したため、首相となって組閣したが、僅か4か月で総辞職においこまれた。15年内閣参議、17年大日本興亜同盟総裁。

没年月日
昭和18年2月4日

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20世紀日本人名事典 「林銑十郎」の解説

林 銑十郎
ハヤシ センジュウロウ

大正・昭和期の陸軍大将,政治家 首相;陸相。



生年
明治9年2月23日(1876年)

没年
昭和18(1943)年2月4日

出生地
石川県金沢市

学歴〔年〕
陸士〔明治29年〕卒,陸大〔明治36年〕卒

経歴
日露戦争に従軍後、大正2年ドイツに留学、4年から1年間イギリスに駐在。その後、7年歩兵第57連隊長、14年歩兵第2旅団長、昭和2年陸大校長、3年教育総監部本部長、4年近衛師団長、5年朝鮮軍司令官を歴任。6年満州事変の際、独断で朝鮮軍を旧満州に越境派遣し問題となる。7年大将。同年教育総監を経て、9年斎藤内閣の陸相に就任。続く岡田内閣にも留任したが、皇道派を排して統制派を登用したことから相沢事件が発生、辞任した。12年2月広田内閣総辞職後、宇垣内閣が陸軍の反対で流産したため、首相となって組閣したが、僅か4か月で総辞職においこまれた。15年内閣参議、17年大日本興亜同盟総裁。

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改訂新版 世界大百科事典 「林銑十郎」の意味・わかりやすい解説

林銑十郎 (はやしせんじゅうろう)
生没年:1876-1943(明治9-昭和18)

陸軍軍人,政治家。石川県出身。陸軍士官学校8期,陸軍大学校卒。臨時軍事調査委員,教育総監部本部長などを経て,1930年朝鮮軍司令官。満州事変の勃発に際しては独断で朝鮮から兵力を派遣し,“越境将軍”とよばれた。32年大将に進み,34年斎藤実内閣の陸相に就任して統制派の立場に立った軍政を推し進めた。37年2月首相となったが,その親軍的・反政党的姿勢のゆえに総選挙で政府与党が惨敗し,組閣後4ヵ月で総辞職に追い込まれた。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「林銑十郎」の解説

林銑十郎
はやしせんじゅうろう

1876.2.23~1943.2.4

大正・昭和前期の陸軍軍人・首相。石川県出身。陸軍士官学校・陸軍大学校卒。満州事変に際し,朝鮮軍司令官として参謀本部の制止を無視して満州に進攻し追認された。荒木貞夫・真崎甚三郎が一夕会(いっせきかい)を基礎に皇道派を形成すると当初同調するが,荒木・真崎の派閥人事に反発し,1934年(昭和9)陸相に就任すると永田鉄山を軍務局長に起用,真崎教育総監を更迭して皇道派に打撃を与え,初期統制派の形成を庇護した。相沢事件で引責辞任,36年予備役編入。37年宇垣一成の組閣失敗後をうけて内閣を組織,祭政一致を掲げ政党と絶縁。「食い逃げ解散」を敢行したが選挙で政党側が大勝,4カ月余で総辞職した。40年から内閣参議。

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百科事典マイペディア 「林銑十郎」の意味・わかりやすい解説

林銑十郎【はやしせんじゅうろう】

陸軍大将,政治家。金沢の出身。陸軍大学卒。朝鮮軍司令官在任中,満州事変に際し独断出兵を行い問題となった。斎藤実(まこと),岡田啓介内閣の陸相となり,統制派の意向を受けて皇道派の真崎甚三郎教育総監を罷免した。1937年組閣。→林銑十郎内閣

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「林銑十郎」の解説

林銑十郎 はやし-せんじゅうろう

1876-1943 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。
明治9年2月23日生まれ。昭和5年朝鮮軍司令官。満州事変に際し独断出兵し越境将軍とよばれた。7年陸軍大将。斎藤・岡田両内閣の陸相をつとめ,皇道派の真崎(まざき)甚三郎を更迭。12年首相となるが,組閣4ヵ月で総辞職。昭和18年2月4日死去。68歳。石川県出身。陸軍大学校卒。

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367日誕生日大事典 「林銑十郎」の解説

林 銑十郎 (はやし せんじゅうろう)

生年月日:1876年2月23日
大正時代;昭和時代の陸軍軍人;政治家。総理大臣
1943年没

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世界大百科事典(旧版)内の林銑十郎の言及

【佚存叢書】より

林述斎の編集した中国古書の叢書。寛政(1789‐1801),文化(1804‐18)年間に完成した。…

【清俗紀聞】より

…年中行事,居家,冠服,飲食,閭(りよ)学,生誕,冠礼,婚礼,賓客,羈旅(きりよ),喪礼,祭礼,僧徒の13巻に分かち,図絵を付して解説してある。巻頭に林述斎,黒沢惟直(雪堂),中井曾弘の序文(漢文)があり,末尾の跋には,編集に協力した大通事,小通事,画工,清国人の姓名をのせる。本文は変体仮名による和漢混淆文。…

【新編相模国風土記稿】より

…1841年(天保12)成立。昌平黌地理局総裁林述斎編。全126巻。…

【新編武蔵風土記稿】より

…1828年(文政11)成立。昌平黌地理局総裁林述斎編。全265巻。…

【地誌】より

…1635年(寛永12)刊の徳永種久《しきおんろん(色音論)》を最初に中川喜雲《京童》《鎌倉物語》,浅井了意《東海道名所記》《江戸名所記》《武蔵鐙(むさしあぶみ)》《京雀》,一無軒道冶《蘆分船》《難波鑑(なにわかがみ)》,菱川師宣《江戸雀》や,《新編鎌倉志》《江戸鹿子》などができ,享保(1716‐36)以降は仮名草子的性格を脱した菊岡沾凉(せんりよう)《江戸砂子》,斎藤幸雄《江戸名所図会》を最高峰とする秋里籬島(りとう)《都名所図会》(1780)以来の名所図会類,鈴木牧之《北越雪譜》,紀行文としての古河古松軒《東遊雑記》,大田南畝《調布日記》などがある。 幕府官撰の地誌は後期に下り,大学頭林述斎の建議により,彼が総裁となって昌平坂学問所に地誌編修取調所を置き,地誌を収集して《編修地誌備用典籍解題》を作成し,間宮士信(ことのぶ)ら40人が武蔵国各郡を分担して1810年(文化7)起稿,28年(文政11)完成し,《新編武蔵風土記稿》として30年幕府に献上した。これから江戸府内をはずし別に《御府内風土記》を編纂したが焼失し,収集資料を整理して《御府内備考》として出版した。…

【朝野旧聞裒藁】より

…1093巻。江戸幕府の官撰で大学頭林述斎の監修。1819年(文政2)に着手,41年(天保12)に完成。…

【徳川実紀】より

…516冊(本編447冊,付録68冊,成書例・総目録・引用書目1冊)。大学頭林述斎を総裁とし,成島司直(もとなお)を主任格に20名余の編纂員で撰述し,1809年(文化6)起稿,43年(天保14)に完成。正本献上につづいて副本が作成され,49年(嘉永2)に完成。…

【林家】より

…その間,歴代当主に学力の差,早世,時勢の変化があって盛衰があり,他学派の隆盛に押されることもあって,幕政参与は鵞峯以後漸次少となり,鳳岡,述斎を除いてはほとんど無力であった。林述斎は美濃岩村藩主の家から入って継承したが,老中松平定信ら幕閣に提言して,学校制度のみでなく編纂事業をも遂行した。林家は改元,法制,朝鮮通信使の応接,外交文書の起草,幕臣の教育などを初代から任務として当たり,幕府の諸事諮問を受ける家であるので,儒学界では終始重んぜられた。…

※「林銑十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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