宇垣一成(読み)ウガキカズシゲ

デジタル大辞泉 「宇垣一成」の意味・読み・例文・類語

うがき‐かずしげ【宇垣一成】

[1868~1956]軍人・政治家。陸軍大将。岡山の生まれ。清浦加藤若槻わかつき内閣の陸相を務め、軍縮と軍の合理化近代化を進めた。のち、朝鮮総督。昭和12年(1937)組閣の大命を受けたが、軍部の反対にあって失敗。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「宇垣一成」の意味・読み・例文・類語

うがき‐かずしげ【宇垣一成】

  1. 陸軍大将。政治家。岡山県出身。陸軍大学校卒。陸相、朝鮮総督、外相、拓務相などを歴任。慶応四~昭和三一年(一八六八‐一九五六

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇垣一成」の意味・わかりやすい解説

宇垣一成
うがきかずしげ
(1868―1956)

軍人(陸軍大将)、政治家。慶応(けいおう)4年6月21日岡山県に生まれる。1890年(明治23)陸軍士官学校卒業、1900年(明治33)陸軍大学校卒業。参謀本部員となり、軍事研究のため日露戦争前後二度ドイツに駐在した。1911年軍務局軍事課長となり、2個師団増設のために活躍、1913年(大正2)山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣のときには軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をとった。1916年参謀本部作戦部長に就任、1918年にはシベリア出兵方針の策定にあたった。その後、陸軍大学校校長、第一〇師団長、教育総監部本部長、陸軍次官を経て、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の陸相となり、加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣と留任。この間、4個師団を廃止し、経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあて、軍の近代化を図り、同時に学校教練、青年訓練所制度を実現した。1929年(昭和4)浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のときふたたび陸相となったが、1931年、桜会を中心とするクーデター計画である三月事件に関与し、事件後辞職した。その後1936年まで朝鮮総督として、朝鮮の軍需工業の育成と農村振興運動に力を注いだ。1937年広田弘毅(ひろたこうき)内閣総辞職後、組閣の大命を受けたが、陸軍が反対し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出さず、組閣を流産させた。翌1938年には近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相、拓務相についたが、興亜院設置をめぐって陸軍と対立、辞任した。戦後、公職追放。解除ののち1953年(昭和28)参議院選挙に出馬、全国区最高点で当選した。昭和31年4月30日死去。

[北河賢三]

『『宇垣一成日記』全3巻(1968~1971・みすず書房)』『井上清著『宇垣一成』(1975・朝日新聞社)』『堀真清編著『宇垣一成とその時代──大正・昭和前期の軍部・政党・官僚』(1999・新評論)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「宇垣一成」の意味・わかりやすい解説

宇垣一成 (うがきかずしげ)
生没年:1868-1956(明治1-昭和31)

陸軍軍人(大将),政治家。岡山県出身。18歳で軍人を志して上京。陸軍士官学校(1期),陸軍大学校卒。参謀本部部員としてドイツ駐在などを経て,1911年陸軍省軍事課長となり,山本権兵衛内閣の時に実施された陸軍大臣現役武官制の廃止に反対して画策。その後,24年田中義一の推挙により清浦奎吾内閣の陸相に就任,加藤高明内閣若槻礼次郎内閣にも陸相として留任した。この間,加藤内閣下で4個師団の廃止を中心とした宇垣軍縮を断行。軍縮を求める世論の矛先をかわしつつ節減した予算によって陸軍装備の近代化を推進し,さらに青年訓練所の設置や学校教練の実施などにより国家総動員体制の整備をすすめた。29年浜口雄幸内閣の陸相となって陸軍の実権をにぎり,31年の三月事件にも黒幕として関与し,事件後辞職して朝鮮総督に就任する。37年広田弘毅内閣の総辞職にともない組閣の命をうけたが,その政治力を忌避した陸軍中堅幹部の激しい反対にあい組閣を断念する。38年近衛文麿内閣の外相となって,戦争の長期化による国力の消耗を防ぐ立場から対中国和平工作をすすめたが,対支中央機関設置問題で軍部と対立して辞任。敗戦後,53年に参議院議員に全国区最高点で当選。《宇垣一成日記》全3巻は史料としても重要である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「宇垣一成」の解説

宇垣 一成
ウガキ カズシゲ


肩書
陸相,外相,参院議員(緑風会)

別名
幼名=杢次

生年月日
慶応4年6月21日(1868年)

出身地
岡山県赤磐郡潟背村(現・瀬戸町)

学歴
陸士(第1期)〔明治23年〕卒 陸大〔明治33年〕卒

経歴
明治35〜37年ドイツに留学。44年陸軍省に入り、軍事課長。参謀本部総務部長、陸軍次官などを経て、大正13年から清浦圭吾、加藤高明、若槻礼次郎各内閣の陸相。この間、4個師団の削減を実行して“宇垣軍縮”といわれた。14年大将。昭和4年には浜口雄幸内閣の陸相となり、陸軍内に“宇垣閥”を形成。6年の三月事件に関わり、国家改造運動に論拠を与えたことで知られる。同年予備役後は朝鮮総督となって軍需産業の育成につとめた。12年組閣の大命を受けたが軍内派閥抗争により組閣を断念。13年近衛改造内閣の外相兼拓相となるが、再び陸軍と対立、5ケ月で退任。その後も度々首相候補に挙げられた。戦後、28年の追放解除後は、参院全国区で最高点で当選。著書に「宇垣一成日記」(全3巻)など。

没年月日
昭和31年4月30日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「宇垣一成」の解説

宇垣 一成
ウガキ カズシゲ

明治〜昭和期の陸軍大将,政治家 陸相;外相;参院議員(緑風会)。



生年
慶応4年6月21日(1868年)

没年
昭和31(1956)年4月30日

出身地
岡山県赤磐郡潟背村(現・瀬戸町)

別名
幼名=杢次

学歴〔年〕
陸士(第1期)〔明治23年〕卒,陸大〔明治33年〕卒

経歴
明治35〜37年ドイツに留学。44年陸軍省に入り、軍事課長。参謀本部総務部長、陸軍次官などを経て、大正13年から清浦圭吾、加藤高明、若槻礼次郎各内閣の陸相。この間、4個師団の削減を実行して“宇垣軍縮”といわれた。14年大将。昭和4年には浜口雄幸内閣の陸相となり、陸軍内に“宇垣閥”を形成。6年の三月事件に関わり、国家改造運動に論拠を与えたことで知られる。同年予備役後は朝鮮総督となって軍需産業の育成につとめた。12年組閣の大命を受けたが軍内派閥抗争により組閣を断念。13年近衛改造内閣の外相兼拓相となるが、再び陸軍と対立、5ケ月で退任。その後も度々首相候補に挙げられた。戦後、28年の追放解除後は、参院全国区で最高点で当選。著書に「宇垣一成日記」(全3巻)など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「宇垣一成」の意味・わかりやすい解説

宇垣一成【うがきかずしげ】

陸軍大将。備前(びぜん)国磐梨(いわなし)郡出身。参謀本部総務部長,陸軍次官などを歴任。清浦,加藤高明,若槻の各内閣の陸相として軍縮,軍の近代化に努力。1931年の三月事件ではクーデタ内閣の首相に予定されていた。のち朝鮮総督となり,農山村振興,重化学工業の育成に努めた。1937年組閣の命を受けたが軍の反対で失敗。第2次大戦敗戦後公職追放されたが,1953年の参議院選挙で最高点当選。
→関連項目皇道派

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宇垣一成」の意味・わかりやすい解説

宇垣一成
うがきかずしげ

[生]慶応4(1868).6.21. 岡山
[没]1956.4.30. 東京
軍人,政治家。陸軍士官学校,陸軍大学校卒業後,ドイツに留学。帰国後,陸大教官,軍事課長,参謀本部第1部長,陸大校長,第 10師団長,教育総監部本部長,陸軍次官を歴任,1924年清浦奎吾内閣の陸相となった。陸相在任中,4個師団の兵員を削減する一方,戦車隊の新設,飛行隊の増設をはかるなど (いわゆる宇垣軍縮) 陸軍の近代化に努め,その政治的手腕は軍内外の評判となった。 29年浜口雄幸内閣の陸相に再度就任し,その後朝鮮総督を経て,37年1月,組閣の「大命」を受けたが,陸軍の反逆にあい組閣に失敗。その後 38年,第1次近衛文麿内閣の外相兼拓務相となり,戦後は参議院議員をつとめた。日記が『宇垣一成日記』として公刊されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「宇垣一成」の解説

宇垣一成
うがきかずしげ

1868.6.21~1956.4.30

大正・昭和期の軍人・政治家。陸軍大将。岡山県出身。陸軍士官学校(1期)・陸軍大学校卒。陸軍省軍事課長・参謀本部第1部長などをへて,1924年(大正13)田中義一の推薦で清浦内閣の陸相となり,4個師団廃止などの宇垣軍縮を断行。31年(昭和6)陸軍のクーデタ計画に関与(3月事件)。同年朝鮮総督に就任。37年組閣を命じられたが陸軍の反対で断念。翌年第1次近衛内閣の外相・拓相に就任。第2次大戦後,参議院議員。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「宇垣一成」の解説

宇垣一成
うがきかずしげ

1868〜1956
大正・昭和期の軍人・政治家
陸軍大将。岡山県の生まれ。清浦奎吾・加藤高明・若槻礼次郎各内閣の陸相,朝鮮総督,浜口雄幸内閣の陸相を歴任。宇垣閥を形成し,三月事件で軍閥政権の首相に擬されたが,拒絶し軍部内の支持を失う。1937年広田弘毅内閣のあと組閣にあたったが,軍部の反対で断念した。翌年第1次近衛文麿内閣に外相として一時入閣。第二次世界大戦後の'53年参議院議員選挙で全国区最高点で当選した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇垣一成」の解説

宇垣一成 うがき-かずしげ

1868-1956 明治-昭和時代の軍人,政治家。
慶応4年6月21日生まれ。大正13年清浦内閣の陸相,以後4回就任。14年陸軍大将。軍縮を断行し軍の近代化をすすめ,宇垣閥をきずく。昭和6年に三月事件にかかわり辞任,朝鮮総督となる。12年組閣しようとするが陸軍の反対で断念。28年参議院議員。昭和31年4月30日死去。87歳。備前(岡山県)出身。陸軍大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「宇垣一成」の解説

宇垣 一成 (うがき かずしげ)

生年月日:1868年6月21日
明治時代-昭和時代の軍人;政治家
1956年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宇垣一成の言及

【国本社】より

…前年の虎の門事件に衝撃をうけた平沼が,〈国体ノ精華ヲ顕要スル〉ことを目的として結成した,反政党政治・反国際協調の傾向を強くもつ団体である。メンバーは平沼系の判事,検事が中心であるが,荒木貞夫,宇垣一成,後藤文夫,池田成彬などの軍人や内務省などの高級官僚,財界人をも組織した点に特色がある。地方支部でも司法官や地方政財界の名士を多数組織しており,市役所,裁判所内に事務所を設けている支部も多かった(支部39,会員1万7816名,1935年時の官憲資料)。…

【三月事件】より

…1931年の日本陸軍によるクーデタ未遂事件。前年10月桜会を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは,31年2月第59議会が幣原喜重郎首相代理の失言問題で大混乱に陥ったのをみて,クーデタを遂行し宇垣一成陸相を首班とする内閣を樹立しようとはかった。建川美次参謀本部第2部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。…

【内鮮融和運動】より

日韓併合後,併合の詔書を前提に朝鮮人の皇民化=日本人化(内地人化)を図る目的で行われた融和運動。とくに1919年の三・一独立運動後に“同化”を目標に展開されたが,内鮮融和は満州事変を契機に宇垣一成総督下(1931年9月‐36年8月)に提唱された。その後,日中戦争の拡大下で,朝鮮人を動員するため南次郎朝鮮総督は内鮮一体をスローガンとして掲げ,皇民化政策が強化され,その典型が40年の創氏改名であった。…

※「宇垣一成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android