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宇垣一成 うがきかずしげ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宇垣一成
うがきかずしげ

[生]慶応4(1868).6.21. 岡山
[没]1956.4.30. 東京
軍人,政治家陸軍士官学校陸軍大学校卒業後,ドイツに留学。帰国後,陸大教官,軍事課長,参謀本部第1部長,陸大校長,第 10師団長,教育総監部本部長,陸軍次官を歴任,1924年清浦奎吾内閣陸相となった。陸相在任中,4個師団の兵員を削減する一方,戦車隊の新設,飛行隊の増設をはかるなど (いわゆる宇垣軍縮) 陸軍の近代化に努め,その政治的手腕は軍内外の評判となった。 29年浜口雄幸内閣の陸相に再度就任し,その後朝鮮総督を経て,37年1月,組閣の「大命」を受けたが,陸軍の反逆にあい組閣に失敗。その後 38年,第1次近衛文麿内閣の外相兼拓務相となり,戦後は参議院議員をつとめた。日記が『宇垣一成日記』として公刊されている。

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百科事典マイペディアの解説

宇垣一成【うがきかずしげ】

陸軍大将。備前(びぜん)国磐梨(いわなし)郡出身。参謀本部総務部長,陸軍次官などを歴任。清浦,加藤高明若槻の各内閣の陸相として軍縮,軍の近代化に努力。1931年の三月事件ではクーデタ内閣の首相に予定されていた。
→関連項目皇道派

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宇垣一成 うがき-かずしげ

1868-1956 明治-昭和時代の軍人,政治家。
慶応4年6月21日生まれ。大正13年清浦内閣の陸相,以後4回就任。14年陸軍大将。軍縮を断行し軍の近代化をすすめ,宇垣閥をきずく。昭和6年に三月事件にかかわり辞任,朝鮮総督となる。12年組閣しようとするが陸軍の反対で断念。28年参議院議員。昭和31年4月30日死去。87歳。備前(岡山県)出身。陸軍大学校卒。

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世界大百科事典 第2版の解説

うがきかずしげ【宇垣一成】

1868‐1956(明治1‐昭和31)
陸軍軍人(大将),政治家。岡山県出身。18歳で軍人を志して上京。陸軍士官学校(1期),陸軍大学校卒。参謀本部部員としてドイツ駐在などを経て,1911年陸軍省軍事課長となり,山本権兵衛内閣の時に実施された陸軍大臣現役武官制の廃止に反対して画策。その後,24年田中義一の推挙により清浦奎吾内閣の陸相に就任,加藤高明内閣若槻礼次郎内閣にも陸相として留任した。この間,加藤内閣下で4個師団の廃止を中心とした宇垣軍縮を断行。

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大辞林 第三版の解説

うがきかずしげ【宇垣一成】

1868~1956) 陸軍軍人・政治家。岡山県生まれ。大将。清浦内閣などの陸相を務め、軍縮と軍の近代化を行なった。1937年(昭和12)陸軍内部の反対で組閣に失敗。第二次大戦後、参議院議員。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宇垣一成
うがきかずしげ
(1868―1956)

軍人(陸軍大将)、政治家。慶応(けいおう)4年6月21日岡山県に生まれる。1890年(明治23)陸軍士官学校卒業、1900年(明治33)陸軍大学校卒業。参謀本部員となり、軍事研究のため日露戦争前後二度ドイツに駐在した。1911年軍務局軍事課長となり、2個師団増設のために活躍、1913年(大正2)山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣のときには軍部大臣現役武官制廃止に反対の立場をとった。1916年参謀本部作戦部長に就任、1918年にはシベリア出兵方針の策定にあたった。その後、陸軍大学校校長、第一〇師団長、教育総監部本部長、陸軍次官を経て、1924年清浦奎吾(きようらけいご)内閣の陸相となり、加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣と留任。この間、4個師団を廃止し、経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあて、軍の近代化を図り、同時に学校教練、青年訓練所制度を実現した。1929年(昭和4)浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のときふたたび陸相となったが、1931年、桜会を中心とするクーデター計画である三月事件に関与し、事件後辞職した。その後1936年まで朝鮮総督として、朝鮮の軍需工業の育成と農村振興運動に力を注いだ。1937年広田弘毅(ひろたこうき)内閣総辞職後、組閣の大命を受けたが、陸軍が反対し、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出さず、組閣を流産させた。翌1938年には近衛文麿(このえふみまろ)内閣の外相、拓務相についたが、興亜院設置をめぐって陸軍と対立、辞任した。戦後、公職追放。解除ののち1953年(昭和28)参議院選挙に出馬、全国区最高点で当選した。昭和31年4月30日死去。[北河賢三]
『『宇垣一成日記』全3巻(1968~1971・みすず書房) ▽井上清著『宇垣一成』(1975・朝日新聞社) ▽堀真清編著『宇垣一成とその時代──大正・昭和前期の軍部・政党・官僚』(1999・新評論)』

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世界大百科事典内の宇垣一成の言及

【国本社】より

…前年の虎の門事件に衝撃をうけた平沼が,〈国体ノ精華ヲ顕要スル〉ことを目的として結成した,反政党政治・反国際協調の傾向を強くもつ団体である。メンバーは平沼系の判事,検事が中心であるが,荒木貞夫,宇垣一成,後藤文夫,池田成彬などの軍人や内務省などの高級官僚,財界人をも組織した点に特色がある。地方支部でも司法官や地方政財界の名士を多数組織しており,市役所,裁判所内に事務所を設けている支部も多かった(支部39,会員1万7816名,1935年時の官憲資料)。…

【三月事件】より

…1931年の日本陸軍によるクーデタ未遂事件。前年10月桜会を結成した参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らは,31年2月第59議会が幣原喜重郎首相代理の失言問題で大混乱に陥ったのをみて,クーデタを遂行し宇垣一成陸相を首班とする内閣を樹立しようとはかった。建川美次参謀本部第2部長をはじめ二宮治重参謀次長,杉山元陸軍次官,小磯国昭軍務局長ら宇垣周辺の陸軍首脳部は橋本らに呼応し,積極的に画策をすすめた。…

【内鮮融和運動】より

日韓併合後,併合の詔書を前提に朝鮮人の皇民化=日本人化(内地人化)を図る目的で行われた融和運動。とくに1919年の三・一独立運動後に“同化”を目標に展開されたが,内鮮融和は満州事変を契機に宇垣一成総督下(1931年9月‐36年8月)に提唱された。その後,日中戦争の拡大下で,朝鮮人を動員するため南次郎朝鮮総督は内鮮一体をスローガンとして掲げ,皇民化政策が強化され,その典型が40年の創氏改名であった。…

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