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寺内寿一 てらうち ひさいち

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美術人名辞典の解説

寺内寿一

陸軍軍人。山口県生。寺内正毅の長男。陸軍大学校卒。大正8年伯爵襲爵し、のち台湾軍司令官・大将・広田内閣陸軍大臣・北支那方面軍司令官・元帥を務める。昭和21年(1946)歿、68才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

寺内寿一 てらうち-ひさいち

1879-1946 明治-昭和時代前期の軍人。
明治12年8月8日生まれ。寺内正毅(まさたけ)の長男。台湾軍司令官などをつとめ昭和10年陸軍大将。二・二六事件後の広田内閣で陸相となるが,浜田国松議員との「腹切り問答」で内閣総辞職の因をつくった。太平洋戦争では南方軍総司令官として指揮。18年元帥。昭和21年6月12日シンガポール抑留中に病死。68歳。山口県出身。陸軍大学校卒。

出典|講談社
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世界大百科事典 第2版の解説

てらうちひさいち【寺内寿一】

1879‐1946(明治12‐昭和21)
陸軍軍人(元帥)。山口県出身。寺内正毅の長男。陸軍士官学校(11期),陸軍大学校卒。台湾軍司令官などを経て1936年,二・二六事件の直後に広田弘毅内閣の陸相に就任,〈粛軍〉を掲げつつ陸軍の政治的発言権を強化し,翌37年1月の議会では浜田国松議員との間に論戦を展開して(腹切問答),政党と正面衝突した。その後,教育総監,北支那方面軍司令官などを歴任し41年には南方軍総司令官となり,南方作戦全体を指揮した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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大辞林 第三版の解説

てらうちひさいち【寺内寿一】

1879~1946) 軍人。陸軍大将・元帥。山口県生まれ。二・二六事件後、広田内閣の陸相。1941年(昭和16)南方軍総司令官。敗戦後サイゴンで死亡。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

寺内寿一
てらうちひさいち

[生]1879.8.8. 東京
[没]1946.6.12. ジョホール
陸軍軍人。寺内正毅の長男。 1899年に陸軍士官学校を卒業。 1919年近衛歩兵第3連隊長のとき,伯爵を襲爵。 34年に台湾軍司令官,翌年に大将に昇進した。軍事参議官を経て,36~37年広田弘毅内閣の陸相。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

寺内寿一
てらうちひさいち
(1879―1946)

陸軍軍人、元帥(げんすい)。山口県出身。陸軍大将・首相寺内正毅(まさたけ)の長男。1899年(明治32)陸軍士官学校、1909年(明治42)陸軍大学校卒業。第五師団長、台湾軍司令官などを経て、1936年(昭和11)3月、二・ニ六事件の直後に陸相候補となり、自由主義的と目された入閣予定者の排除を要求して広田弘毅(ひろたこうき)新内閣の組閣に干渉。同内閣の陸相に就任したのちも軍部の政治介入を強力に推進した。翌1937年1月には、衆議院で軍部を批判する政友会の浜田国松(はまだくにまつ)との間に「腹切り問答」を展開して政党と正面衝突し、このため広田内閣は総辞職に追い込まれた。その後、1941年には南方軍総司令官となって南方作戦を指揮し、敗戦後サイゴンで死亡。[吉田 裕]
『上法快男編『元帥 寺内寿一』(1978・芙蓉書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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