陸軍軍人。明治15年1月4日、大分県の農家に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。日露戦争に参加、参謀本部員となり、1913年(大正2)より1920年までドイツ、デンマーク、スイスの駐在武官を歴任して、第一次世界大戦を観察した。1934年(昭和9)支那(しな)駐屯軍司令官となり、1935年6月、軍事的圧力をかけて梅津‐何応欽(かおうきん)協定を中国に強要し、中国本土への侵入の契機をつくった。1936年3月陸軍次官となり、二・二六事件後の粛軍を推進し、1937年宇垣一成(うがきかずしげ)内閣の成立を流産させた。1939年9月関東軍司令官、1944年7月参謀総長となる。敗戦に際し重光葵(しげみつまもる)とともに降伏文書に調印。A級戦犯として終身禁錮の判決を受け、服役中に病死した。
[佐々木隆爾]
『梅津美治郎刊行会・上法快男編『最後の参謀総長=梅津美治郎』(1977・芙蓉書房)』
大正・昭和期の陸軍大将 陸軍参謀総長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
陸軍軍人。大分県出身。陸軍士官学校(15期),陸軍大学校卒。第1次世界大戦直前のドイツ,大戦中のデンマーク,スイスなどに参謀本部部員として駐在。1935年支那駐屯軍司令官として日本の華北進出のてことなった梅津・何応欽協定を締結,翌36年の二・二六事件直後には陸軍次官に就任して粛軍と軍部の政治的進出を推し進めた。その後,第1軍司令官,関東軍総司令官などを経て,40年大将,44年に参謀総長となり,敗戦に伴い全権の一人として降伏文書に調印した。極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑。
執筆者:吉田 裕
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1882.1.4~1949.1.8
大正・昭和期の軍人。陸軍大将。大分県出身。陸軍士官学校(15期)・陸軍大学校卒。陸軍省軍事課長・参謀本部総務部長などをへて,1934年(昭和9)支那駐屯軍司令官となり,翌年梅津・何応欽(かおうきん)協定を結んだ。2・26事件後,陸軍の中枢に位置し,陸軍次官・関東軍司令官などを歴任。最後の参謀総長となり,降伏文書調印式に陸軍代表として参列。第2次大戦後,A級戦犯として終身刑。
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…1945年9月2日,日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏することを正式に承認することを示すために調印された文書。調印は東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号上でなされ,日本側からは天皇および日本国政府を代表して重光葵(まもる)外相が,大本営を代表して梅津美治郎(よしじろう)参謀総長が調印し,連合国側からは最高司令官マッカーサーを筆頭にアメリカ,中華民国,イギリス,ソ連,オーストラリア,カナダ,フランス,オランダ,ニュージーランドの各代表が調印した。文書はポツダム宣言の受諾とその誠実な履行,日本軍の無条件降伏,日本軍・国民の敵対行為の停止,財産破壊の防止,連合国の俘虜および被抑留者の解放・保護・輸送などを規定し,かつ占領統治の基本方針として天皇および日本国政府職員がとくに命令のない限りその任務にとどまり,連合国最高司令官の布告・命令・指示に従って国家統治の任に当たるという間接統治方式を規定した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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