真崎甚三郎(読み)まさきじんざぶろう

精選版 日本国語大辞典 「真崎甚三郎」の意味・読み・例文・類語

まさき‐じんざぶろう【真崎甚三郎】

軍人。陸軍大将。佐賀県出身。教育総監二・二六事件皇道派中心人物と見られ起訴されたが無罪となった。明治九~昭和三一年(一八七六‐一九五六

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デジタル大辞泉 「真崎甚三郎」の意味・読み・例文・類語

まざき‐じんざぶろう〔‐ジンザブラウ〕【真崎甚三郎】

[1876~1956]軍人。陸軍大将。佐賀の生まれ。陸軍士官学校長・教育総監を歴任皇道派の中心人物で、二・二六事件では関与を問われ起訴されたが無罪となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「真崎甚三郎」の意味・わかりやすい解説

真崎甚三郎
まざきじんざぶろう
(1876―1956)

陸軍軍人。佐賀県出身。陸軍士官学校9期。荒木貞夫(あらきさだお)、阿部信行(あべのぶゆき)、本庄繁(ほんじょうしげる)らと同期。陸軍大学校卒業後、陸軍省軍務局課員となり、おもに軍令・教育畑を歩く。1926年(大正15)陸士校長となり、精神主義教育を重視し生徒をひきつける。荒木らと反宇垣(うがき)閥を形成し、のちに皇道派とよばれる勢力の中心人物となる。1934年(昭和9)教育総監となり国体明徴運動推進させたが、新たに台頭した統制派と対立し、林陸相に罷免された。二・二六事件では反乱幇助(ほうじょ)の容疑で逮捕されたが、結局無罪となる。敗戦後A級戦犯容疑者として巣鴨(すがも)拘置所に収容されたが、被告選定の最終段階で起訴から外された。『真崎甚三郎日記』(山川出版社)が公刊されている。

[小田部雄次]

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改訂新版 世界大百科事典 「真崎甚三郎」の意味・わかりやすい解説

真崎甚三郎 (まざきじんざぶろう)
生没年:1876-1956(明治9-昭和31)

陸軍軍人。佐賀県生れ。陸軍士官学校(9期)卒業,日露戦争従軍,陸軍大学校卒業。1923年陸士本科長,26年同校長に就任。この間,尊皇絶対の日本主義による訓育につとめ安藤輝三,磯部浅一ら後年〈昭和維新〉に挺身した青年将校を輩出した。32年参謀次長に就任,荒木貞夫とともに皇道派首領と仰がれた。33年大将,次いで教育総監となったが,35年林銑十郎陸相の反皇道派人事により罷免され,相沢事件二・二六事件の誘因をつくった。二・二六事件後,予備役編入,反乱幇助(ほうじよ)の容疑で軍法会議に付されたが,無罪となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「真崎甚三郎」の意味・わかりやすい解説

真崎甚三郎
まさきじんざぶろう

[生]1876.11.27. 佐賀
[没]1956.8.31. 東京
陸軍軍人。 1897年陸軍士官学校,1907年陸軍大学校卒業。 11~14年ドイツ駐在武官。 31年台湾軍司令官,32年参謀次長,33年大将,軍事参議官。荒木貞夫と並んで軍部皇道派の巨頭と目され,青年将校の信望を集めた。 34年1月教育総監となったが,7月林銑十郎陸相の粛軍人事によって罷免されたため,革新青年将校の憤激を呼び,そのあと相沢事件二・二六事件などが起った。二・二六事件では,反乱幇助の容疑で収容され軍法会議にかけられたが,無罪。 36年3月に予備役に編入され,第2次世界大戦後には軍部統制派に対する批判文を発表,『文藝春秋読本-現代史』 (1954) に掲載された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「真崎甚三郎」の解説

真崎甚三郎
まさきじんざぶろう

1876.11.27~1956.8.31

大正・昭和期の軍人。陸軍大将。佐賀県出身。陸軍士官学校(9期)・陸軍大学校卒。教育総監部第2課長・陸軍省軍務局軍事課長・陸軍士官学校校長などをへて,1929年(昭和4)第1師団長となる。台湾軍司令官ののち,32年参謀次長となり,荒木貞夫とともに皇道派中心の人事を推進。34年教育総監となるが,翌年林銑十郎陸相により罷免された。これが相沢事件,2・26事件の遠因となった。2・26事件後に予備役編入となり,反乱幇助容疑で軍法会議にかけられたが無罪。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「真崎甚三郎」の解説

真崎甚三郎 まざき-じんざぶろう

1876-1956 明治-昭和時代前期の軍人。
明治9年11月27日生まれ。昭和8年陸軍大将。皇道派の中心人物で,9年教育総監兼軍事参議官となる。二・二六事件では反乱幇助(ほうじょ)の容疑で軍法会議にかけられたが無罪。戦後はA級戦犯として2年間収容された。昭和31年8月31日死去。79歳。佐賀県出身。陸軍大学校卒。

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旺文社日本史事典 三訂版 「真崎甚三郎」の解説

真崎甚三郎
まさきじんざぶろう

1876〜1956
昭和期の軍人
陸軍大将。佐賀県の生まれ。荒木貞夫とならぶ,皇道派首領として権力があったが,統制派の進出により教育総監を更迭され,このため相沢事件がおこった。二・二六事件後の粛軍人事で予備役に編入された。第二次世界大戦後,戦犯として2年間収監された。

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世界大百科事典(旧版)内の真崎甚三郎の言及

【皇道派】より

…昭和期の陸軍部内の派閥。1920年代後半,宇垣一成陸相のもとで形成された宇垣閥に反発した一派の系譜をひく荒木貞夫真崎甚三郎を中心とする派閥。陸相時代の荒木が国軍を皇軍といったり,皇道精神を唱えたりしたことから,皇道派という呼称が生まれた。…

【粛軍】より

…しかし,彼らが二・二六事件の指導者として決起すると,今度は逆に事件の責任の追及と内部統制再建のための措置が粛軍の具体的内容とされた。陸軍中央部は事件鎮圧とともに特設軍法会議を設け,反乱軍指導者をはじめ民間の北一輝らをも死刑を主とする厳罰に処したが,この間,36年3,4月には,事件当時の軍事参議官林銑十郎,真崎甚三郎,荒木貞夫,阿部信行の4大将をはじめ,現役の大将10名中7名を予備役に編入するなど,8月の定期異動をも含めて3000名をこえる空前の将校人事異動を行い,事件の責任を明らかにするとともに,皇道派勢力の一掃をはかった。また寺内寿一陸相は,4月8日の師団長会議で,軍人個々の政治行動は軍人の本分にもとるとし,軍の政治行動は陸軍大臣を通じてのみ行うべきものと訓示して軍内統制の方向を示し,政府も5月の第69議会で不穏文書取締法を成立させて,いわゆる怪文書取締りを強化して軍内秩序を側面から支援する姿勢を示した。…

※「真崎甚三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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