益田右衛門介 (ますだうえもんのすけ)
生没年:1833-64(天保4-元治1)
幕末長州藩の重臣。永代家老の益田家に生まれ,名は兼施,のち親施。弾正,越中とも称した。1857年(安政4)家老に任じ,藩政改革・尊王攘夷運動の中心人物の一人であったが,64年(元治1)藩勢挽回を目指す禁門の変に兵を率いて参戦し,敗走した。領地の須佐に謹慎の後,征長軍を迎え,同年11月幕府への謝罪のため三家老の一人として切腹し,益田家も一時,御神本(みかもと)と改姓した。
執筆者:井上 勝生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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益田右衛門介 ますだ-うえもんのすけ
1833-1864 幕末の武士。
天保(てんぽう)4年9月2日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩の家老。文久3年京都にゆき攘夷(じょうい)親征を建議したが,八月十八日の政変で七卿(しちきょう)とともに帰藩。元治(げんじ)元年禁門の変をおこし,第1次幕長戦争の際の降伏条件として,同年11月11日切腹を命じられた。32歳。名は兼施,親施(ちかのぶ)。通称は別に弾正。号は霜台。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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益田右衛門介
ますだうえもんのすけ
[生]天保4(1833).9. 萩
[没]元治1(1864).11.12. 徳山
幕末の長州藩家老。名は親施 (ちかのぶ) 。1万 2000石。益田家は永代家老。吉田松陰に師事。攘夷親征に尽力し,禁門の変を起したが敗れ,国司 (くにし) 信濃,福原越後とともに自刃を命じられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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益田右衛門介 (ますだうえもんのすけ)
生年月日:1833年9月2日
江戸時代末期の長州(萩)藩家老
1864年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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