直入郷(読み)なおいりごう

日本歴史地名大系 「直入郷」の解説

直入郷
なおいりごう

古代の直入郡直入郷(和名抄)を継承する中世の郷。現久住くじゆう(一部を除く)おぎ町と現竹田市(南部を除く)一帯に比定される。

文治年中(一一八五―九〇)宇佐宮太大工小山田貞遠が作成利用した宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に「直入郷」とみえ、同宮仮殿造営の際、置路甃一丈・釘貫一七間などが割当てられている。内閣文庫本豊後国弘安田代注進状に「直入郡百七十町 本郷百町、入田郷三十町、合直入百三十町」とみえ、直入郡一七〇町のうち朽網くたみ郷四〇町を除いた直入郷一〇〇町に入田にゆうた郷三〇町を含めて直入郷とも称したようである。この一三〇町の領家は清凉しようりよう(現京都市右京区)地頭は兵庫助(大友頼泰)であった。領家清凉寺との関係は寛和二年(九八六)入唐僧然が帰朝し、一時直入郷に逗留した際、地下人が在所の上米を日々差上げたところ奇瑞があり、以降然の弟子盛算が創建した清凉寺への請要米として継承されたとの伝承がある(清凉寺縁起)。正慶元年(一三三二)正月一一日の賀来社年中行事次第(柞原八幡宮文書)によれば、直入郷は豊後一宮の由原ゆすはら八幡宮(現大分市)の五月会の流鏑馬や放生会の在庁饗膳等の雑役を勤仕している。

一方、当郷に対する大友氏の支配は大野泰基の乱に与同した大神系直入氏の所領が没収され、中原親能(大友能直の養父)に給付されたことに始まると考えられる。貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)に「直入郷付、田野・阿蘇野」とみえ、大友家惣領の氏時の所領で玖珠くす飯田はんだ(現九重町)内の田野たのと朽網郷内の阿蘇野あその(現庄内町)は大友氏の勢力伸張の過程で集積され、当郷の付けたりとして編入されていたようである。直入郷は氏時から親世が継承した(永徳三年七月一八日「大友親世所領所職等注進状案」同文書)。康暦二年(一三八〇)大友氏は当郷内三宅みやけ名・上木うえき(植木)名・飛田ひた名・市用いちもち名・柏原かしわばる名・平田ひらた名・狭田はさだ名・木原きばる名・いずみ名・拝田原はいたばる名・埴田はにた名・家中やなか名のうちの諸所を狭間・高山・首藤・大塚・矢野・小田原・桑畑・石合・田尻・熊谷・小原・津・五郡・堅田・賀来・市河・伊藤・伊賀・衛藤・岩屋・田口・古庄・賀嶋・小河内・木原・波野・荒巻・田吹・吉岡・上尾・永小野・帯刀・江・大用庵の三四氏(四五名)に給分として分け与えていた(同年一二月八日「直入郷給人注文」志賀文書)。応永二一年(一四一四)九月八日の直入郷段銭結解土代(同文書)には、当郷内の名として三宅名・柏原名・上肥田(上飛田)名・下肥田名・拝田原名・平田名・狭田名・泉名・志土智しとち名・久住名・岩瀬いわせ名・白仁しらに名・埴田名・木原名・市用名・松本まつもと名・田北たぎた名・葎原むぐらばる名・家中名・坂折さかおり名・直毛名・田原たばる名・植木うえき名・下志土智(名)坂田さかた村の二五名(うち村一)がみえ、その田積は二四二町八段一〇歩(坂折名・直毛名・下志土智名の田積は記載なし)であった。


直入郷
なおいりごう

和名抄」道円本・高山寺本・東急本に訓はない。郷域としては現在の竹田市玉来たまらい地区から入田にゆうた地区を含む竹田市南部が想定されている。「豊後国風土記」にみえる直入郡の駅家と郡家を当郷に想定する意見も有力である。平安時代後期の庄園公領制の進展の過程で、当郷は柏原かしわばら郷と三宅郷を編入して一つの所領となった。数郷を統合する有力な在地領主の登場が想定されるが、当郷が国衙領であったことから、国衙権力を背景にした統合も想定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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