真野村
まのむら
[現在地名]満濃町真野
金倉川上流の左岸に位置し、東は満濃池所に接しているが、境界線は複雑に入組む。弘仁一二年(八二一)空海によって満濃池が修築され、以後、池にいちばん近い当村はその恩恵を受けることも大きかったが、池の決壊によって被害を受け、池普請の賦役に苦しんだ。古代真野郷の遺称地。中世には近江園城寺領真野庄と真野勅旨郷がみえる。真野庄は承元二年(一二〇八)一月二四日に後鳥羽上皇より同寺に寄進され(寺門高僧記)、建武三年(一三三六)九月二四日の光厳上皇院宣(案、園城寺文書)で同寺に安堵されているが、詳細は不明である。
慶長一二年(一六〇七)生駒氏より「七ケ村之内真野村」の合せて一五石が金刀比羅宮に寄進されている(「生駒家奉行寄進状」金刀比羅宮文書)。寛永国絵図では七ヶ村に属した。寛永一八年(一六四一)の満濃池水掛高帳(鎌田博物館蔵)には「四百石 真野村」とある。同一九年の小物成は綿三三匁(高松領小物成帳)。天保郷帳の高六七七石余。明治八年(一八七五)頃の耕地八四町余、家数一二七・人数七九八(戸口反別等一覧)。
真野村
まのむら
[現在地名]石巻市真野
真野川上流の京ヶ森―雄勝峠―上品山を結ぶ半円形の山嶺下に位置し、北は水沼村、南は沼津村、京ヶ森の北西麓を取囲む。「日本後紀」弘仁六年(八一五)三月二六日条にある「陸奥国遠田郡人竹城公音勝等卅五人賜姓高城連、真野公営山等
六人真野連」の記述から、「真野姓の人の拓きし山村にやあらむ」(大日本地名辞書)をはじめ、「当村往古入江之節、船渡・船着沢・船場・楫取島小島と申所等在之、入江間野と相成候ニ付村名真野と唱来候由申伝候事」(安永風土記)との説や、開拓集団地をさすアイヌ語マノから、真草の生えている野を表す普通名詞真野が地名化したなどの地名由来諸説がある。真野川南岸から丸森山北西麓へかけての水田地帯に一ノ坪から十ノ坪の字名が残るが、坪当りの地積は条里制のそれより大きさ・形も不整、並行式ないし千鳥式の坪付と一致しない。平行して東西に走る畦畔の間隔は条里制の坪間隔にほぼ一致するほか、長地式地割がみられる。
真野村
まのむら
[現在地名]真野町真野
北・東・南を吉岡村に囲まれ、西は新町村・渋手村。経塚山に源を発する真野川が、真野湾に注ごうとする谷間の開けた地域で、山地・台地と一部の平地とからなる。順徳上皇にまつわる話として、近江国の真野(現滋賀県大津市)の地名が移されたとの説があり、古来、順徳上皇の御火葬塚の所在地として、またこの別当であった真輪寺(現在の真野宮)の所在地として知られた。元禄(一六八八―一七〇四)以前には竹田村のうちの真野組と称された。
真野村
まのむら
[現在地名]岸本町真野
大原村の南、大原千町の中央部に位置し、東方には広い原野の緩やかな傾斜地が展開する。集落の北側を深い谷を形成しながら別所川が、南を同川支流の陽前谷川がともに西流する。戦国期には山名氏家臣真野隠岐守が当地に居住していたといい、のちに真野氏は日下(現米子市)に移ったと伝える(伯耆志)。また一帯に広い原野が展開するところから当地が大山西明院領久古牧の中心地であったと推定する説もある。
真野村
まのむら
[現在地名]綾部市睦合町 真野
念道小山村の東、集落は若狭街道沿いと北の段丘上に位置する。東は上林川を越えて浅原村に通ずる。
中世は上林庄の地。天正八年(一五八〇)の並河貞□譲状(福井家文書)に「まの」の地名がみえる。江戸時代は園部藩領。
真野村
まののむら
旧滋賀郡北部にあった古代村落。「新撰姓氏録」右京皇別下の真野臣には古代の名族和珥氏一族の祖である孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後裔佐久命の九世孫である和珥部臣鳥と務大肆忍勝らが、「居住近江国志賀郡真野村、庚寅年負真野臣姓也」とある。務大肆という冠位は天武一四年天皇(六八五)制定のもので、庚寅年は一般に庚寅年籍の作成された持統天皇四年(六九〇)と考えられるから、持統朝の前後に真野村に居住していた和珥部臣の一族が真野臣に改氏姓したことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 