新撰 芸能人物事典 明治~平成 「石丸寛」の解説
石丸 寛
イシマル ヒロシ
- 職業
- 指揮者 作曲家
- 肩書
- 九州交響楽団音楽監督
- 生年月日
- 大正11年 2月19日
- 出生地
- 中国・青島
- 出身地
- 福岡県 嘉穂郡嘉穂町(嘉麻市)
- 学歴
- 文化学院大学部美術科〔昭和19年〕卒
- 経歴
- 貿易商の長男として中国・青島に生まれる。小学校時代の友人に校長の息子だった中村二大がおり、その弟が中村八大だった。父の影響でクラシック音楽に親しみ、一方で絵画も得意とした。中学ではブラスバンドでクラリネットやアコーディオンを担当、さらに和声、オーケストレーション、対位法などを独学。日中戦争の勃発により、昭和13年日本に帰国。公立学校に進む予定だったが、弟たちの通う玉川中学(玉川学園中学部)を見学に行った際に当時の日本では珍しかったパイプオルガンに触れ感動、小原国芳校長の勧めもあり入学。在学中は合唱団に所属し、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが指揮した新交響楽団のベートーヴェン交響曲9番演奏会にも出演している。この時代、作曲を長村金二に師事。その後、文化学院で絵画を学び(文化学院での友人に木村功がいた)、彫刻家・毛利武士郎と二人展を開くほどだったが、一方で新響を指揮する山田一雄に憧れて弟子入りを手紙で懇願、17年より師事し、指揮法、管弦楽法を学んだ。19年満州に出征するも、戦後両親の故郷である福岡へ復員。22年九州大学の学生オーケストラを再建して指揮者デビュー。また福岡交響楽団や西南学院グリークラブ、フィルハーモニック・ソサイエティの創立・指導をしつつ、25年よりフィルハーモニック・ソサイエティとコール・オルフォイスのメンバーによる福岡合唱協会を結成、27年と28年の西部合唱コンクールで優勝を果たした。一方、28年に発足した九州交響楽団には設立から参画し、初代常任指揮者に就任。27年東京交響楽団特別演奏会を指揮し東京デビュー、29年には有馬大五郎のセッティングにより来日したカラヤンからレッスンを受けている。31年研鑽のため本格的に上京、練馬の六畳一間に下宿しながら東京交響楽団やNHK交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団などで指揮。専任指揮者の口はいくつもあったが、どれも断りフリーで活動を続けた。38年タイのプミポン国王が来日した際には、国王の作った曲を編曲しN響を指揮。39年黛敏郎とテレビ朝日で「題名のない音楽会」を開始、9年間出演し、広く親しまれた。47年からネスレの援助で全国各地のアマチュアオーケストラや合唱団を指導し演奏会を催す“ゴールドブレンドコンサート”を開き、約20年間続けた。なおネスカフェ「ゴールドブレンド」“違いのわかる男”のCMにも出演している。60年両国国技館に全国のアマチュア合唱団を集める“5000人の第九”を発案、指揮者を変えながら毎年行わるイベントに育てた。61年からはヤマト運輸の主催する親子向け演奏会「おしゃべり好きなコンサート」にも積極的に協力。クラシックの裾野を広げる役割を果たした。平成6年大腸癌が判明、7年“人生最後の仕事”として九響の初代音楽監督兼常務理事に就任し、抗癌剤の使用を拒否して演奏を行った。著書に「それゆけオーケストラ!」「棒振りラプソディ」などがある。作曲では交響詩「舞扇」「三つの夜の歌」「交響管弦楽のためのエスキース」、編曲にも合唱曲「会津磐梯山」などがある。絵画も止めることなく、自らのコンサートの告知ポスターをしばしば描いた。
- 受賞
- 福岡県文化賞(特別部門 第5回)〔平成9年〕
- 没年月日
- 平成10年 3月23日 (1998年)
- 伝記
- タクトと絵筆―指揮者石丸寛 最後の対話 横田 庄一郎 著(発行元 芸術現代社 ’98発行)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報