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オーストリアの指揮者。広いレパートリーに加えて精力的な活動を誇り、また社会的な注目を浴びる言動が多く、20世紀後半を代表する演奏家の一人と目される。4月5日ザルツブルクに生まれる。生地およびウィーンで学び、1927年ドイツのウルム歌劇場指揮者になったのを振り出しに、アーヘン歌劇場、ベルリン国立歌劇場の指揮者を歴任。第二次世界大戦後、公職追放されたが、47年活動を再開、急速に名を高めた。55年、フルトベングラーの後任としてベルリン・フィルハーモニーの第4代常任指揮者、翌56年終身芸術監督に就任、以来西欧の音楽界の枢要ポストを一手に収めたため、「帝王カラヤン」とよばれるに至った。54年(昭和29)N響に客演のため初来日。以後、59年のウィーン・フィルを除けば、すべてベルリン・フィルと9回来日。89年春の叙勲では、勲二等旭日(きょくじつ)重光章を受章している。後進の育成にも力を注ぎ、69年には「ヘルベルト・フォン・カラヤン財団」を設立、若い指揮者発掘のためカラヤン・コンクールを新設した。89年7月16日没。
[岩井宏之]
『F・エンドラー記、吉田仙太郎訳『カラヤン自伝を語る』(1989・白水社)』▽『R・C・バッハマン著、横田みどり訳『カラヤン――栄光の裏側に』(1985・音楽之友社)』
オーストリアの指揮者。ザルツブルクに生まれ,同地のモーツァルテウム音楽院に学び,初めピアノ奏者として立つ。のちウィーンで指揮を学び,1929年指揮者としてデビュー,ウルム市立歌劇場,アーヘン歌劇場を経てベルリン国立歌劇場に進出,55年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身常任指揮者に就任,56年ウィーン国立歌劇場総監督,ザルツブルク音楽祭芸術監督なども兼ねた。1954年以来しばしば来日。その指揮は20世紀初頭のいわゆる新即物主義的傾向から,しだいにドイツの重厚なロマン的趣味と現代風な洗練度の高いオーケストラの色彩感とを包括していき,終局的にはドイツの伝統の上に立つ完璧な名人芸的オーケストラ表現を打ちたてた。ベルリン・フィルはそのような表現の具として彼の理想を実現したものである。
執筆者:大木 正興
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