浮田村(読み)うきだむら

日本歴史地名大系 「浮田村」の解説

浮田村
うきだむら

[現在地名]東和町上浮田かみうきだ下浮田しもうきだ

宮田みやだ村の東に位置し、北上高地西辺の山間に立地。当村は東の下浮田村と西の上浮田村に分れ駒籠こまごめ村を挟んでいる。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)の地下士(堪忍衆)のなかに浮田左兵衛がみえる。同氏の居館と伝えるくるま館跡が上浮田山居さんきよ沢西側丘陵頂部にある。斜面部に帯郭、丘陵続きに空堀を設けており、平場面積は約一ヘクタール。

慶長六年(一六〇一)四月八日の南部利直知行宛行状(宝翰類聚)によれば、「浮田村五百石」を含む七〇〇石が葛西勝兵衛に与えられている。仙台藩領との境界の村であったが、大図日記(多田文書)によれば寛永一二年(一六三五)検地の際、平沢ひらさわ(現北上市)との境を中山なかやま峠に立てることに決定したが、中山屋敷に数代にわたり住していた平野帯刀が野尻のじりを境とするよう願出、野尻が境となっている。


浮田村
うきたむら

[現在地名]宮崎市浮田

細江ほそえ村の北東に位置し、宮崎郡に属する。西は長嶺ながみね村、南は生目いきめ村。「うきだ」ともよばれる。村内には生目神社往還のほか、北東から南西へ向かう往還、高岡たかおか(現高岡町)方面へ向かう往還が通る。鎌倉・室町時代には当地一帯は浮田庄とよばれ、豊前宇佐宮領の庄園であった。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳に浮田三〇町とある。ほかに余田あまりだ五町がみえ、当地の余り田あまりだとみられる。天正一六年八月四日の日向国知行方目録によると、浮田三〇町は高橋元種に宛行われている。慶長五年(一六〇〇)一〇月一日、高橋氏の宮崎城を攻め落した伊東氏家臣稲津掃部助は、浮田など五ヵ所に陣を張り同城周辺を固めている(日向記)


浮田村
うきたむら

[現在地名]鹿島町浮田

山下やました村の枝郷。南東流する真野まの川の南岸に位置し、対岸角川原つのがわら村、南東は岡和田おかわだ村。西に東郷とうごう山があり、その北西は山下村。明暦二年(一六五六)同村から分村(相馬藩政史)。天保郷帳では山下村に「古者 山下村・浮田村・安倉新田三ケ村」と注記される。明暦二年の高二五六石余(相馬藩政史)元禄郷帳に山下村枝郷と注記され高四四五石余。なお元禄検地高は三九九石余、ほかに新田四五石余がある(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数五八、嘉永元年(一八四八)の家数五三(検地石高収納戸口等調)


浮田村
うきたむら

[現在地名]鰺ヶ沢町北浮田きたうきた

北は山、南は小屋敷こやしき村、東は広岡ひろおか(現木造町)、西は北浮田村に接する。

国日記寛文三年(一六六三)五月一二日条に「三浦権兵衛申上候ハ浮田村野内に高千石之所御蔵派に仕立可申候中村河より堰上ケ申候」とある。同四年の高辻帳に高四五八・一石とある。享保一一年(一七二六)検地帳に「鼻和庄北浮田村之内浮田村仕分水帳」とあるが、虫食のため村高などは不明。「青森県租税誌」によれば北浮田村の支村とみえ、文政七年(一八二四)写の陸奥国津軽郡之図(市立弘前図書館蔵)に浮田村がみえ、この時までに独立したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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