歌舞伎狂言。世話物。通称《女清玄(おんなせいげん)》。4世鶴屋南北作。1814年(文化11)3月江戸市村座初演。おもな配役は,花子の前のちに清玄尼・召使お初を5世岩井半四郎,松若・局岩藤・下部軍助を7世市川団十郎,粂の平内・猿島惣太を5世松本幸四郎。清玄桜姫物の一つで,主役の清玄を尼にしたもの。入間家の惣領花子の前は剃髪し清玄尼となるが,死んだと思った許嫁松若に出会い破戒し,妹桜姫に嫉妬して浅茅原の庵室で殺される。筋よりも,野路の玉川の蛍狩で松若と清玄尼が契りをかわす夢の場や,春の隅田川で白魚の網を打つ松若と零落した清玄尼がすれ違う夜舟の場面など,直接感性にうったえるところが魅力。その中でも女方半四郎の丸坊主姿を見せる趣向が眼目で,この趣向は,半四郎の父4世岩井半四郎が1790年(寛政2)に《卯しく存曾我(おんうれしくぞんじそが)》で演じた《比丘尼の狂言》を継承したもの。丸顔の4世の純情な味と違って,面長で受け口の5世の坊主姿には扇情的な倒錯の美学があり,それが頽廃的な幕末の世相に合って大当りをとり,改題改作されながらも今日まで舞台生命を保つことになった。全体の構成,部分部分の趣向などは,数ある清玄桜姫物のうち,1810年(文化7)市村座で上演された尾上松助主演,鶴屋南北作の夏狂言《閨扇墨染桜(ねやのおうぎすみぞめざくら)》をほぼなぞり,弥生狂言にふさわしく《鏡山(かがみやま)》(《加賀見山旧錦絵(かがみやまこきようのにしきえ)》)の狂言が新たにはめ込まれている。松助の演じた清玄を半四郎が演じ,松助の当り役《鏡山》の岩藤を団十郎が受け継ぐ構想で書かれ,そのため松助一流の早替りや蛇の仕掛物が随所に用いられる。これは松助の提携者で南北の息子でもある直江重兵衛(当時坂東鶴十郎,のちの2世勝俵蔵)が本作の筋書を担当したためである。南北・直江親子は,本作の構成,趣向,せりふなどをそのまま流用して,3年後に今度は半四郎に女方の桜姫を演じさせるべく《桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)》を書いた。
執筆者:古井戸 秀夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歌舞伎(かぶき)脚本。時代世話物。六幕。4世鶴屋南北作。通称「女清玄(おんなせいげん)」。1814年(文化11)3月江戸市村座で、5世岩井半四郎・5世松本幸四郎・7世市川団十郎らが初演。「清水(きよみず)清玄」の愛欲物語を、主人公を女に書き換えた作で、「隅田川物」の役名を使い、これに「鏡山」を結び付けた構成である。入間(いるま)家の息女花子の前は許婚(いいなずけ)の松若が死んだと聞いて剃髪(ていはつ)し清玄尼となるが、その松若が実は生きていて妹の桜姫と祝言するので、煩悶(はんもん)のすえに破戒、松若を慕って流浪し、かねてから懸想されていた悪者猿島(さるしま)惣太にくどかれ、それを拒んだために殺される。大切(おおぎり)は「双面(ふたおもて)」形式の常磐津(ときわず)舞踊で、隅田川辺をさまよう松若のところへ、清玄尼の亡霊が松若と同じ姿で現れ、これを悩ますという筋(すじ)。美貌(びぼう)の女方半四郎を丸坊主の尼にしたところに、南北の着想らしい倒錯美がある。1956年(昭和31)に6世中村歌右衛門(うたえもん)が復活した。
[松井俊諭]
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…いずれにせよ,能の狂女物としての性格からしだいに離れ,お家物狂言として展開していくが,隅田川という名によるためであろうか,江戸の歌舞伎狂言が圧倒的に多い。《双生隅田川》以後,江戸歌舞伎では《法界坊》(《隅田川続俤(ごにちのおもかげ)》),《忍ぶの惣太》(《都鳥廓白浪(みやこどりながれのしらなみ)》),さらに《清玄桜姫》(《隅田川花御所染》《桜姫東文章》)とも結合していく。また,梅若丸の命日が3月15日とあるところから,隅田川物は弥生狂言として上演されることが多かった。…
…幕府当局からの狂言差止めは1812年(文化9)1月市村座《色一座梅椿(いろいちざうめとしらたま)》でも惹起し,その年中不当りが続いたが,翌13年3月森田座での《お染久松色読販(うきなのよみうり)》(半四郎のお染の七役)は大当りを占めた。 後期の代表作には,半四郎の〈女清玄〉の《隅田川花御所染(すみだがわはなのごしよぞめ)》(1814年3月市村座),お六・八ッ橋(二役,半四郎)と願哲(幸四郎)の《杜若艶色紫(かきつばたいろもえどぞめ)》(1815年5月河原崎座),公卿の息女が宿場女郎に転落した巷説を舞台化した《桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)》(1817年3月河原崎座),俳優の日常生活を舞台化した〈世話の暫〉の《四天王産湯玉川(してんのううぶゆのたまがわ)》(1818年11月玉川座),菊五郎,幸四郎の亀山の仇討《霊験亀山鉾(れいげんかめやまぼこ)》(1822年8月河原崎座),菊五郎,半四郎,団十郎の不破名古屋と権八小紫の《浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)》(1823年3月市村座),清元《累(かさね)》を含む《法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)》(1823年6月森田座),その最高傑作である《東海道四谷怪談》(1825年7月中村座),深川五人斬事件を劇化した《盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)》(1825年9月中村座),また番付にみずから一世一代と銘うった最後の作《金幣猿嶋郡(きんのざいさるしまだいり)》(1829年11月中村座)などがある。その年11月27日没し,葬礼に際しては《寂光門松後万歳(しでのかどまつごまんざい)》と題する正本仕立ての摺物を配らせ,自分の手で死を茶化した。…
※「隅田川花御所染」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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