磯村(読み)いそむら

日本歴史地名大系 「磯村」の解説

磯村
いそむら

[現在地名]米原町磯

筑摩つくま村の南に位置し、南は犬上いぬかみ松原まつばら(現彦根市)。西は琵琶湖、東は入江いりえ内湖(筑摩江)で、集落は砂洲上に営まれ、北には両湖を結ぶ水路がある。地内には掘割がめぐらされ、日常の交通手段はほとんど船が用いられた。南の磯山は井伊家が佐和山さわやま(現彦根市)を廃した後の築城候補地の一つであった(「徳川実紀」慶長八年二月条)。「源平盛衰記」巻三〇には「平方ひらかた朝妻あさづま筑摩つくまの浦々を過ぎぬれば、千本ちもとの松原を打通り」とあり、木曾義仲の軍勢は東山道へ出るため当地を通過している。当地磯崎いそざき神社の社伝では寿永二年(一一〇七)七月に義仲が武運長久を祈願したという。「輿地志略」に小野おの庄下郷磯村とあり、慶長五年(一六〇〇)九月一六日の徳川家康禁制(磯村文書)にみえる小野庄とは磯村・うめはら村、甲田こうだ村・物生山むしやま(現彦根市)をさし、これらの村には磯崎神社の氏子がいる。

慶長高辻帳に村名がみえ高五五八石余、うち小物成一六石余。江戸時代を通じ彦根藩領。磯村は内湖の漁業や舟運に特権を有し、近隣の農漁村とは異なる性格をもっていたらしい。慶長六年には船一〇六艘を保持しており(芦浦観音寺文書)、井伊家が彦根に移った際、輸送などの役を負担したという。

磯村
いそむら

[現在地名]鴨川市磯村

横渚よこすか村の南にあり、太平洋に面した津出湊であった。伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通り、横渚村前原まえばら町との間を流れる加茂かも川には渡場があった。「廻国雑記」に「磯村といへる所は名にしおひて、いそづたひの村なれば」とみえ、聖護院道興は「海ちかく磯つたひゆくいそむらに村々みゆるあまの釣ふね」と詠んでいる。文明年間(一四六九―八七)磯村は漁業を中心とした海浜集落であったことが推察される。当地は中世江戸湾に面する穂田ほた吉浜よしはま(現鋸南町)長狭ながさ道で直接結ばれていること、同湾の水上活動に大きな影響力をもった安房妙本みようほん(現鋸南町)の有力末寺上行じようぎよう寺が当地にあったことや地理的条件などから、室町時代外房を代表する港湾集落として存在していたとみられる。永禄六年(一五六三)閏一二月二三日の日侃書状案(妙本寺文書)によると、上行寺は不慮の火災で焼失しており、このとき妙本寺住持日侃は同寺について「坊地雖為少所、有由緒而及三百年、従当寺相拘、累代時之坊主お申付候」と記している。また上行寺は妙本寺一世日郷が、妙本寺開基以前に布教活動を行った所と伝えられるなど、妙本寺にとって格別の意味をもつ末寺であった。

慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高二四石余(うち田方一石余)、里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳でも同様であるが、「但町割ハ金ニ而納」と注記される。

磯村
いそむら

[現在地名]伊勢市磯町

宮川・外城田ときだ川に挟まれた河口近くにある。「皇太神宮儀式帳」に「度会山田原立屯倉、新家連阿久多督領、磯連牟良助督仕奉」と磯連の名がみえる。「建久三年皇太神宮年中行事」の八月一日条に「於一殿直会饗膳其次第如常伊蘇御厨勤」とあり、伊勢神宮領伊蘇御厨が成立していた。「宮司公文抄」(神宮文庫蔵)に「可早任先例員数致催済令勤仕神役伊蘇村当年分公用神税米等事」と記されている。

磯村
いそむら

[現在地名]鹿沼市磯町

くろ川西岸に位置し、西部を小藪こやぶ川が南流する。東部を壬生みぶ通が、中央を例幣使街道がほぼ並行して南北に走る。西は野沢のざわ村、東は藤江ふじえ村、南は赤塚あかづか村・亀和田かめわだ村。郷帳類には礒と記すものが多い。慶安郷帳では田三〇九石余・畑二四〇石余、ほかに大明神(現磯山神社)領七石余。寛永一六年(一六三九)から幕末まで壬生藩領。天保年間(一八三〇―四四)の家数六五(改革組合村)。壬生通楡木にれぎ宿の定助郷となり、享保一七年(一七三二)の勤高五五〇石(「楡木宿助郷高書上」鈴木清一文書)

磯村
いそむら

[現在地名]赤堀町磯

現赤堀町の西北部に位置し、勢多せた郡に属した。赤城山東南部の中腹から南流する鏑木かぶらき川と蕨沢わらびさわ川の間に発達。西の蕨沢川対岸は佐位さい西野にしの村、東の鏑木川対岸は勢多郡(現新里村)、南は佐位郡野村、北は小丘陵峯岸みねぎし山を境に勢多郡小林こばやし(現新里村)。北方に天明年間(一七八一―八九)に作られたという灌漑用の磯沼がある。寛文郷帳では田方一一一石余・畑方四六石余、前橋藩領。近世後期には館林藩領で、安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」では高二一五石余、うち新田高一七石余。

磯村
いそむら

[現在地名]網野町磯

浅茂川あさもがわ村の西、塩江しおえ村の東に位置し、南は山、北は日本海に面する。

慶長検地郷村帳に木津きつ庄の内として「磯村」とある。延宝三年郷村帳には村名がみえないが、おそらく同帳に記す九六・四〇九石「木津庄浜分」に含まれていたと考えられ、また天和元年宮津領村高帳でも七四・三二八石「木津庄浜分」の内と考えられる。

村の西方の丘に、静御前を祀るしずか神社が鎮座。静は磯村出身の磯の禅師の女で、源頼朝に許されたのち故郷へ帰り、死後この社に祀られたとの伝えがある。

磯村
いそむら

[現在地名]八千代町磯

飯沼新田いいぬましんでんからあし村の西を通って北上するヤト田の奥東側台地上に位置。小字には沼口ぬまぐち舟戸ふなとなど飯沼の入江をしのばせるものがある。「各村旧高簿」によれば幕末には旗本石尾銑次郎知行地で村高三〇八石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報