壬生藩(読み)みぶはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「壬生藩」の意味・わかりやすい解説

壬生藩
みぶはん

下野(しもつけ)国都賀(つが)郡壬生栃木県壬生町)に居所を置いた譜代(ふだい)藩。1590年(天正18)後北条氏方(ごほうじょううじかた)についた壬生義雄(よしかつ)が滅ぶと、壬生城は結城秀康(ゆうきひでやす)の支配下に組み入れられた。関ヶ原の戦い後、秀康が越前(えちぜん)国へ移ると、外様(とざま)の日根野吉明(ひねのよしあきら)が信州高遠(たかとお)から1万0900石で入封し当藩が成立。1634年(寛永11)に日根野氏が2万石で豊後(ぶんご)国府内(ふない)に移ると、翌年6月六人衆の阿部忠秋(ただあき)が2万5000石で入封。忠秋は在封中に老中に昇進、39年には5万石で武蔵(むさし)国忍(おし)に転封となった。そのあと同じ六人衆の三浦正次(まさつぐ)が2万5000石で入封。正次、安次(やすつぐ)、明敬(あきひろ)と在封するが、安次のとき5000石を弟長五郎(ちょうごろう)に分知、2万石となる。明敬は1689年(元禄2)若年寄となり、92年日向(ひゅうが)国延岡(のべおか)に移封。かわって松平大河内(おおこうち))輝貞(てるさだ)が3万2000石で入封。輝貞は94年側用人(そばようにん)となり、1万石加増され4万2000石となり、翌年上野(こうずけ)国高崎へ5万2000石余で転封した。そのあと若年寄の加藤明英(あきひで)が近江(おうみ)国水口(みなくち)から入封したが、1712年(正徳2)嘉矩(よしのり)のときふたたび水口へ帰封し、入れ替わりに水口から若年寄の鳥居忠英(とりいただてる)が3万石で入封した。以来鳥居氏は8代にわたって在封し明治維新に至った。鳥居氏時代の藩領下野国都賀郡内28か村、下総(しもうさ)国結城郡内19か村、猿島(さしま)郡内3か村、葛飾(かつしか)郡内1か村、大和(やまと)国葛下(かつげ)郡内4か村、播磨(はりま)国美嚢(みの)郡内24か村、加東(かとう)郡内4か村。1871年(明治4)忠文(ただふみ)のとき廃藩を迎えた。壬生県を経て栃木県に編入。

[阿部 昭]

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藩名・旧国名がわかる事典 「壬生藩」の解説

みぶはん【壬生藩】

江戸時代下野(しもつけ)国都賀(つが)郡壬生(現、栃木県壬生町)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は学習館。戦国大名だった壬生氏が1590年(天正(てんしょう)18)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐で後北条方について敗れ滅亡。関ヶ原の戦い後の1602年(慶長(けいちょう)7)に信濃(しなの)国高島から外様の日根野吉明(ひねのよしあきら)が1万900石で入封(にゅうほう)、立藩した。1635年(寛永(かんえい)12)に譜代の阿部忠秋(ただあき)が2万5000石で入り、以後、三浦氏、松平(大河内)氏、加藤氏が次々に入転封、1712年(正徳(しょうとく)2)に若年寄(わかどしより)の鳥居忠英(ただてる)が3万石で入って以後は、鳥居氏8代が明治維新まで続いた。忠英は名君として知られ、殖産興業を奨励して藩政の基礎を固めた。幕末に尊王攘夷をめぐって藩論が二分し大混乱したが、戊辰(ぼしん)戦争では新政府側についた。1871年(明治4)の廃藩置県により、壬生県を経て栃木県に編入された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「壬生藩」の意味・わかりやすい解説

壬生藩
みぶはん

江戸時代,下野国 (栃木県) 寒川地方を領有した藩。慶長7 (1602) 年日根野吉明 (よしあきら) が1万 5000石で入封したのに始る。以後阿部氏2万 5000石,三浦氏2万 5000石,松平 (大河内) 氏3万 2000石,加藤氏2万 5000石を経て正徳2 (1712) 年以降鳥居氏が3万石で入封,廃藩置県にいたった。鳥居氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「壬生藩」の解説

壬生藩

下野国、壬生(みぶ)(現:栃木県下都賀郡壬生町)を本拠地とした藩。藩主は三浦氏、鳥居氏など。

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