平安末期の白拍子。生没年不詳。父は不明。母は磯禅師。源義経の愛妾。1185年(文治1)義経が兄頼朝と不仲になり京より逃脱したとき,静もこれに同行。しかし翌年吉野山で義経と別れたのち捕らえられ,鎌倉に送られて尋問をうけた。同年7月鎌倉で義経の子を出産するが,男児であったため子は由比ヶ浜に沈められ,静は京に帰された。その後の消息は不明。頼朝・政子夫妻の求めにより鎌倉鶴岡八幡宮社前で舞を舞ったとき,義経への恋慕の想いを歌ったことは《吾妻鏡》にみえて有名。
執筆者:飯田 悠紀子
源義経との邂逅以前の静の前半生のことはよくわからない。幸若舞曲《静》は,伏見の中将と呼ばれた藤原の公卿を父に擬すが,もとより仮構の伝であろう。《義経記》でも,義経が衰運に向かってから登場する。頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が,義経の堀河館を襲撃したおりに活躍したと,《平家物語》《義経記》には気丈な女性像が描かれる。《吾妻鏡》《義経記》が記す静の動静は,基本的には一致している。鎌倉幕府の正式記録とも目される《吾妻鏡》に,義経の一愛妾の消息が詳記されていることには疑義があり,すでに流布していた静の物語を《吾妻鏡》編纂時に取り込んだものと考えられている。義経の遺児が葬られた勝長寿院が,寺の縁起譚として静の物語を管理していたとの説もある。また,《義経記》では帰洛後静が出家し,天竜寺(田中本は天王寺)の麓に庵を結び,往生を遂げたという。しかし,《異本義経記》(近世前期成立)では,出家後再性と名を改め,南都に住したとか奥州へ下ったとかの説を記している。幸若舞曲《静》にも女人教化の場を彷彿とさせる場面があるが,《曾我物語》における虎御前同様,静を名のる女性唱導者がいたらしい。その足跡が寺社の縁起や姓氏・地名にまつわって残存している例が,数多く報告されている。
執筆者:西脇 哲夫
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生没年不詳。源義経(よしつね)の妾(しょう)。磯禅師(いそのぜんじ)の女(むすめ)で、もと京都の白拍子(しらびょうし)であった。義経が京都堀川第(ほりかわだい)で兄頼朝(よりとも)の刺客土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)に襲われたとき、機転によって義経を助けた。以後、義経に従い大物浦(だいもつのうら)(兵庫県尼崎(あまがさき)市大物町)から吉野山に逃れたが、山僧に捕らえられて鎌倉に護送された。鎌倉では義経の所在に関して厳しい訊問(じんもん)を受けたが、静は固く沈黙を守ったという。頼朝の妻北条政子(まさこ)は、静が舞の名手であると聞き、鶴岡八幡(つるがおかはちまん)の神前でこれを舞わせた。工藤祐経(くどうすけつね)が鼓を打ち、畠山重忠(はたけやましげただ)が銅拍子(どうびょうし)を勤めた。静はこのとき、「吉野山峰の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」「しずやしず賤(しず)の苧環(おだまき)くりかへし昔を今になすよしもがな」と、義経への慕情を歌ったため、頼朝の不興を買ったが、政子のとりなしによって事なきを得た。やがて静は一児を生んだが、頼朝はこれを鎌倉由比ヶ浜(ゆいがはま)に捨てさせた。静を主題とした謡曲に『吉野静』『二人静(ふたりしずか)』があり、浄瑠璃(じょうるり)に『義経千本桜』がある。
[鈴木国弘]
(細川涼一)
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…60年代後半以降,東京方面への通勤者が増え,人口も増加している。栗橋駅前に静御前の墓がある。【千葉 立也】
[栗橋宿]
日光道中第7次の宿駅。…
…観世信光(のぶみつ)作。前ジテは静御前。後ジテは平知盛の怨霊。…
※「静御前」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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