第二インターナショナルの流れをくみ,1951年6月,西ドイツのフランクフルト・アム・マインで結成された社会主義・社会民主主義諸党のゆるやかな国際連絡協議機関。COMISCO(コミスコ)(国際社会主義者会議委員会)が前身である。日本からは,社会党と民社党が加盟した。議長は76年からW.ブラント(西ドイツ社会民主党),現在(1997)はモロワPierre Mauroy(フランス社会党),加盟政党は97年現在146政党(約100ヵ国)で,かつての西欧中心から世界組織に発展した。正式メンバー以外に準加盟政党や諸政治グループが存在している。同インターのおもな機関は総会,幹事会,事務局(ロンドン)である。一国一党が原則である。
第2次世界大戦後,ヨーロッパの社会主義者,社会民主主義者は,資本主義,共産主義を排して,第三の道をめざした。しかし,冷戦の激化,東欧における社会民主主義諸党の共産党への強制合併のなかで,多くはアメリカとの同盟に踏み切り,反共的な性格を明確にした。同インター結成の主力はイギリス労働党,フランス社会党,スウェーデン社会民主党,オランダ労働党,西ドイツ社会民主党,オーストリア社会党など西欧諸党であり,それに東欧の亡命政党も加わった。イタリア社会党はネンニの下で社共共闘路線を唱え,1949年COMISCOを除名されたが,のちに復帰した。しかし冷戦終結後のイタリア社会党の没落は,社民化した左翼民主党(旧共産党)が同国際組織に加盟することを可能にした。結成総会には34党,106人の代表が集まり,資本主義と共産主義に挑戦する〈フランクフルト基本宣言〉が採択された。この宣言では,国際共産主義は新しい帝国主義の補助機関だとし,〈社会主義は民主主義を通じてのみ実現され,民主主義は社会主義を通じてのみ完成される〉ことを強調,民主的社会主義の理念を明示した。しかし70年代以降,二つの大きな変化がみられるようになった。第1は,東西の緊張緩和(デタント)を通じて,社会主義インターの反共性が薄められ,東西の協調,交流が加盟諸党によって支持されるようになったことである。第2は,70年代の後半から,北欧・中欧勢に対して,フランス,スペインを中心とした南欧諸党の発言力が相対的に強まったことである。同時にヨーロッパ中心主義から脱却して,南北問題へのアプローチのなかで,ラテン・アメリカやアフリカ諸党の比重が高まり,南の国の貧困や社会的解放がしだいに大きなテーマになっていった。77年12月,アジアで初めての首脳会議が東京と横浜で開催され,核軍縮と核拡散防止の促進,自由と人権抑圧への憂慮などをうたった〈東京宣言〉が採択されている。
執筆者:仲井 斌
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1951年7月、コミスコのフランクフルト・アム・マイン大会で、これを発展的に解消して設立された、社会民主主義政党の国際組織。第一次世界大戦前の第二インターナショナル、戦間期における社会主義労働者インターナショナルの流れを引き、国際共産主義運動と対抗した。2004年の正会員は89か国107政党で、日本からはかつて日本社会党と民社党が参加していたが、2004年現在では社会民主党が加盟している。イギリス労働党、ドイツ社会民主党、フランス社会党などが主要なメンバーで、資本主義の改良と福祉国家建設の立場をとる。76年ジュネーブ大会で新規約を採択、77年12月には東京で首脳会議が開かれた。1989年、社会民主主義を「自由、社会的な公正、連帯を目ざす国際的運動」と規定した社会主義インターナショナルの基本宣言(ストックホルム宣言)を採択。第二次世界大戦後、ヨーロッパの社会民主主義政党の多くが政権に参加し、1989年の東欧革命、91年ソ連解体による国際共産主義運動の解体で、現代の社会主義の主流となった。
[加藤哲郎]
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