イタリアの政治家、社会主義者。ファエンツァの貧農出身。17歳で共和主義者になり、第一次世界大戦直前のマルケの暴動(赤色週間)にマラテスタErrico Malatesta(1853―1932)とともに参加して逮捕された。参戦論者として従軍し、負傷して帰国後ジャーナリストになった(1917~1919)。1921年春、社会党に入党。セルラーティGiacinto Menotti Serratiの去ったあとの『アバンティ』紙編集長の地位につき(1923~1925)、共産党との合同に反対し、トゥラーティの統一社会党との合同に賛成した。ムッソリーニ政権の国家防衛法施行とともにパリに亡命し(1926)、社会党の書記、社会主義インターの執行委員として反ファシストの統一のために活動。統一社会党との合同(1930)、共産党との行動統一協定(1934)を実現し、国際旅団の政治委員としてスペイン内戦に参加(1936~1939)。第二次世界大戦中フランスでドイツ軍に逮捕され、イタリア当局に引き渡され、ポンツァ島に抑留された(1943)。ムッソリーニ政権崩壊後、解放され、再建社会党の代表としてローマの国民解放委員会に参加。1944年春トリアッティのサレルノ政策に反対し、バドリオ政府への入閣を拒否した。第二次世界大戦後パルリ政府の副首相をはじめ数次に及ぶデ・ガスペリ政府の閣僚、制憲議会議員などの要職を歴任。再建社会党の書記長として1956年まで共産党との共闘路線を続けたが、同年秋のハンガリー事件以後、共産党からの分離・独立の路線を推進するとともに中道左派政権を構想し、モーロ政府に始まる中道左派政権に副首相として入閣し(1963~1966)、その後ルモール内閣では外相を務めた(1968~1969)。1970年終身上院議員に選ばれ、また社会党議長に就任した。主著に『四年間の歴史』(1926)、『非スターリン化以後の社会主義の展望』(1962)がある。
[重岡保郎]
イタリアの政治家。北イタリアの農民出身。17歳で共和党に入党し,1911年リビア戦争(イタリア・トルコ戦争)反対のゼネストを組織した。14年民衆反乱〈赤い一週間〉をマラテスタとともに扇動。15年ムッソリーニとともに第1次世界大戦へのイタリア参戦を支持し,大戦後もファシズム運動に参加した。しかしその反労働者政策をみて反ファシズムに転じ,21年社会党に入党し,機関紙《アバンティ!》を指導(1923-25)。自治的,プラグマティックな社会主義を目ざしロッセリと協力,反ファシズム地下活動を継続した。26年フランスに亡命し,反ファシスト諸潮流の共闘を主張。30年には社会党をパリに再建し書記長となり,社会主義インターナショナル執行委員を務める(1931-39)。スペイン内戦に参加し逮捕され,43年釈放後社会党書記長となる。左派を代表し共産党との共闘を主張。第2次大戦後は制憲議会議員,副首相(1945-46),外相(1946-47)を務め,46年以降国会議員。56年以降右派とともにキリスト教民主党との連立政権樹立を志向し,63年最初の中道・左派内閣を実現し,モロ内閣の閣僚となる。ルモール内閣外相(1968-69)として中華人民共和国の国連加入を支持。70年上院終身議員に指名された。
執筆者:戸田 三三冬
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1891~1980
イタリアの政治家。1923~25年に社会党機関紙『前進』(Avanti!)を編集。26年フランスに亡命し,スペイン内戦にイタリア義勇軍の政治委員として参加。第二次世界大戦後,49~64年に社会党書記長を務め,外相や副首相を歴任。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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