ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。リューベックに私生児として生まれ、旧名はヘルベルト・カール・フラームHerbert Karl Frahm、父親は店員で母親は売り子。1930年社会民主党(SPD)入党、1931年社会主義労働者党(SAP)へ移り、その青年組織のリューベックにおける指導者となる。1933年ナチス政権が成立したときウィリー・ブラントと変名、数か月の地下活動ののち逮捕を免れてコペンハーゲンへ逃れ、さらにノルウェーに亡命した。オスロ大学で歴史学を学び、ジャーナリストとなる。オランダ、プラハ、パリを移動し、1936年にはベルリンで半年地下活動。1937年スペイン内戦に際してはスウェーデンの新聞特派員。1938年ノルウェー国籍を取得。1940年ドイツ軍のノルウェー占領時、ノルウェー軍の軍服をまとって捕虜となり、1か月間の捕虜収容所生活で釈放、スウェーデンへ逃れた。そこでジャーナリスト活動家として抵抗運動に加わる。亡命中にSPDに復帰。第二次世界大戦後、1945~1947年に西ドイツとベルリンにおいてスカンジナビア諸新聞の通信員となり、最後はベルリン駐在ノルウェー代表部のプレス部長。1947年ドイツ国籍へ戻り、筆名ブラントを正式名とする。1948年市長エルンスト・ロイターのもとで西ベルリンにおけるSPD指導部代表。1949~1957年国会議員。1950年西ベルリン市会議員となり、1953~1957年西ベルリン市会議長、1957~1966年同市長。1958年よりSPD幹部会員。1960年代初期党首オレンハワーの下でヘルベルト・ウェーナーおよびフリッツ・エルラーとともに指導部内にトロイカ体制を組み、SPDの脱イデオロギー化、現代化を推進。1964年党首。1966年12月~1969年10月保守のキリスト教民主同盟=キリスト教社会同盟(CDU=CSU)と連立政権を組み、キージンガー内閣の副首相兼外相、1969年10月自由民主党(FDP)との連立政権で首相。1970年から1972年にかけて新東方政策を展開し、ソ連・東欧諸国および東独との関係を正常化へ導いた。1971年ノーベル平和賞受賞。1974年5月、側近の一人が東独のスパイであった事件(ギョーム事件)の責任をとって首相を辞任したが党首の座にはとどまる。1979~1983年ヨーロッパ議会の議員。1987年引退し、SPD名誉党首。1988年回顧録執筆、翌1989年刊行。同年11月9日ベルリンの壁が崩壊し、分裂したヨーロッパを癒合するという彼の長年の夢の実現に道が開かれた。1990年1月中に東ドイツの20の都市で政治集会を開く。同年秋、クウェート紛争の調停のためバグダードを訪問、これが最後の国際平和運動となった。1991年秋重病となるも、社会主義インターなどの政治活動を続ける。1992年10月8日死去。
[中川原徳仁]
『直井武夫訳『平和のための戦い』(1973・読売新聞社)』
イギリスの気象学者。ウェールズのモントゴメリー県の小村に生まれる。18歳のとき、ケンブリッジ等の数学優等資格をとり、ニュートン奨学資金も受けた。バーミンガム大学で数学を講義(1913~1915)したが、のちモンマウス師範学校でも数学を講じた。そのころ天文学に興味を抱き、ケフェウス型変光星や太陽物理について研究した。観測結果を整約することにも興味をもち、1917年には『観測値の整約』を書いた。第一次世界大戦中は、最後の2年間、陸軍・空軍のために天気予報をし、復員後は気象局内の陸軍部の監督官となった。1920年、W・N・ショーが気象局を退職し、ロンドン大学インペリアル・カレッジのパートタイムの教授となったとき、ブラントは講師として招かれた。そしてショーのあとを受け、イギリスで初めての気象学の大学教授となった(1934~1952)。
1934年に書いた『物理的および力学的気象学』は、英文で書かれた最初の理論気象学書である。1939年刊行の改訂版の序文のなかでブラントは、「この本のなかには天気予報のことは書かれていない。予報について書くとするとさらに一冊の本が必要となるが、もしそれができたとしても、その本を精読するだけで天気予報ができるかどうかは疑わしい。天気予報にはもちろん物理理論による基礎が必要だが、純粋に理論的に行えることではなく、実践と経験をも必要とする一つの技術artである」という意味のことを述べている。
[根本順吉]
ドイツの作家。風刺文学《阿呆船(愚者の船)Das Narrenschiff》(1494)の作者。シュトラスブルク(現,ストラスブール)に生まれ育ち,長じてバーゼル大学に学生としてさらに法学部教授として25年間席を暖めたが,シュワーベン戦争の結果スイスが神聖ローマ帝国から事実上独立しバーゼルもこれに加盟の勢いとなるに及んで,国王マクシミリアン1世(のちの神聖ローマ皇帝)を信奉するブラントは,職を辞しシュトラスブルクに帰郷(1500)した。その後帝国自由都市シュトラスブルクの書記官長として終生その発展のため尽くした。啓蒙的著作活動はもっぱらバーゼル時代に集中しているが,これには印刷業者で人文主義的教養人であったオルペとの交友があずかって力あろう。とりわけ《阿呆船》は,個人および社会の悪徳や宿弊を,〈罪〉ではなく〈痴愚〉としてとらえ,笑いただそうとする陽性の視点で,さまざまな〈阿呆〉を謝肉祭の行列もどきに登場させるレビュー式展開をとり,ペテロの船(教会)ならぬ阿呆船のアレゴリー,そして全112章にもれなく版画を添えた趣向によって,一般市民の好評を博した。またこれによって,後の一連の〈阿呆文学Narrenliteratur〉の祖となった。
執筆者:新井 皓士
イギリスの写真家。ロンドンに生まれるが,子供のころはドイツで過ごす。スイスで病気療養中に写真に興味を持ち,本格的に写真を始めた。その後パリへ出て,1929-30年の間M.レイのアシスタントを勤め,そこでE.アッジェ,E.ウェストン,ブラッサイの写真に触れ,また親交のあったシュルレアリストたちの影響を受けた。31年ロンドンに戻り,フリーの写真家としての活動を始める。イギリス人の日常生活のドキュメントや第2次大戦中のロンドン空襲下の市民の生活を記録した写真は,ジャーナリズムの枠を越えた深い内面性をもつものであった。戦後は,イギリスの文学風土をテーマとした風景や50年代には超広角レンズをつかって極度にデフォルメしたヌード写真のシリーズなどの写真を撮り,写真表現に新しい地平をもたらした。また彼のつねに深い陰影をもつポートレートは,人間の奥底にひそむドラマを感じさせるものである。あらゆる領域におよぶブラントの写真は,〈強い内面性にささえられた現実感〉を,見るものにもたらすものである。
執筆者:金子 隆一
西ドイツの政治家。社会主義青年運動に参加。1933年亡命,ジャーナリズム活動に従事しつつ反ファシズム運動に参加。47年西ドイツに戻り,西ベルリンのドイツ社会民主党指導者となり,49-57年連邦議会議員,57-66年西ベルリン市長,1964年社会民主党党首,66年キリスト教民主同盟との大連合政府で副首相兼外相,69-74年自由民主党との連立政権の首相を務める。彼のもとで東ドイツ,ソ連など社会主義諸国との関係改善を目ざす東方政策が進展した。1971年ノーベル平和賞受賞。74年5月,秘書のギヨームが東ドイツのスパイであったことが判明して辞職したが,党首の地位は保持した(1987年党首を辞任)。
執筆者:木村 靖二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(廣瀬靖子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1913~92
ドイツの政治家。社会民主党(SPD)が出した西ドイツ最初の首相(在任1969~74)。リューベックに生まれ,少年期から社会主義運動に入ったが,ヒトラーの政権掌握後,名を変えて(本名 H.フラーム)ノルウェーに亡命,ジャーナリストとして活動した。戦後ドイツに帰国,西ベルリンのSPDを指導して1957年同市長となる。党内改革派の領袖として64年SPD党首に選ばれ,69年,自由民主党(FDP)との連立政権で首相となる。首相在任中,国内改革と新東方外交の推進に精力的に取り組んだ。西ドイツとソ連,東欧諸国間の関係正常化と東西間の緊張緩和に貢献した功績により,71年ノーベル平和賞を受賞。74年,秘書のスパイ容疑で首相を辞任するが(87年まで党首),その後も社会主義インター議長など,国際的政治家として活躍した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…とすれば,デタントの意味が,東西間のみか,西側内部でも異なり,それが原因でデタントが崩れるのも不思議ではない。
[戦術的概念として]
たとえば,東方政策で東側とのデタントに成功を収めた西ドイツのブラント首相の場合には,目的‐手段のこの二重性が濃厚であった。すなわち,デタントは,武力の否認と現状維持(ステータス・クオstatus quo)の相互尊重に立脚し,和解,理解,協力という継続的段階をもつ長期的な過程として認識されて,その目標は,まずNATO(ナトー)とワルシャワ条約機構間の軍事的対決を軍備管理と政治的・経済的協力の増大によって緩和し,もってヨーロッパの安全保障システムの安定化をはかり,それをさらに東西の政治的・社会的体制の漸進的融合を含むヨーロッパ平和構造へと発展させるという遠大な構想であった。…
…政策転換の効果は60年代になって現れた。63年オレンハウアーの死後,翌64年西ベルリン市長のブラントが党首となり,66年にはCDU/CSUと大連立政権を構成する。立役者は後に院内総務として実力をふるったウェーナーHerbert Wehner(1906‐90)であった。…
…連邦首相は,1949‐63年のアデナウアー,1963‐66年のエアハルトLudwig Erhard(1897‐1977),1966‐69年のキージンガーKurt Georg Kiesinger(1904‐88。いずれもCDU),1969‐74年のブラント,1974‐82年のシュミットHelmut Schmidt(1918‐ 。いずれもSPD),1982年以降のコール(CDU)の6人であり,そのうちアデナウアーは14年間も首相として,初期の旧西ドイツ政界に絶大な影響を及ぼしたが,コールは14年間の記録を破った。…
※「ブラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新