ブラント(読み)ぶらんと(英語表記)Willy Brandt

デジタル大辞泉 「ブラント」の意味・読み・例文・類語

ブラント(Willy Brandt)

[1913~1992]ドイツの政治家。社会民主党(SPD)党首として西ドイツ首相に就任。在任1969~1974。東側諸国との関係の正常化に努め、1971年ノーベル平和賞受賞。→シュミット

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精選版 日本国語大辞典 「ブラント」の意味・読み・例文・類語

ブラント

  1. ( Willy Brandt ウィリー━ ) ドイツの政治家。一九六四年、社会民主党党主。六九~七四年、自由民主党との連立政権の首相を務め、ソ連・東欧との関係正常化に尽力した。七一年ノーベル平和賞受賞。(一九一三‐九二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブラント」の意味・わかりやすい解説

ブラント(Willy Brandt)
ぶらんと
Willy Brandt
(1913―1992)

ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家。リューベックに私生児として生まれ、旧名はヘルベルト・カール・フラームHerbert Karl Frahm、父親は店員で母親は売り子。1930年社会民主党(SPD)入党、1931年社会主義労働者党(SAP)へ移り、その青年組織のリューベックにおける指導者となる。1933年ナチス政権が成立したときウィリー・ブラントと変名、数か月の地下活動ののち逮捕を免れてコペンハーゲンへ逃れ、さらにノルウェーに亡命した。オスロ大学で歴史学を学び、ジャーナリストとなる。オランダ、プラハ、パリを移動し、1936年にはベルリンで半年地下活動。1937年スペイン内戦に際してはスウェーデンの新聞特派員。1938年ノルウェー国籍を取得。1940年ドイツ軍のノルウェー占領時、ノルウェー軍の軍服をまとって捕虜となり、1か月間の捕虜収容所生活で釈放、スウェーデンへ逃れた。そこでジャーナリスト活動家として抵抗運動に加わる。亡命中にSPDに復帰。第二次世界大戦後、1945~1947年に西ドイツとベルリンにおいてスカンジナビア諸新聞の通信員となり、最後はベルリン駐在ノルウェー代表部のプレス部長。1947年ドイツ国籍へ戻り、筆名ブラントを正式名とする。1948年市長エルンスト・ロイターのもとで西ベルリンにおけるSPD指導部代表。1949~1957年国会議員。1950年西ベルリン市会議員となり、1953~1957年西ベルリン市会議長、1957~1966年同市長。1958年よりSPD幹部会員。1960年代初期党首オレンハワーの下でヘルベルト・ウェーナーおよびフリッツ・エルラーとともに指導部内にトロイカ体制を組み、SPDの脱イデオロギー化、現代化を推進。1964年党首。1966年12月~1969年10月保守のキリスト教民主同盟=キリスト教社会同盟(CDU=CSU)と連立政権を組み、キージンガー内閣の副首相兼外相、1969年10月自由民主党(FDP)との連立政権で首相。1970年から1972年にかけて新東方政策を展開し、ソ連・東欧諸国および東独との関係を正常化へ導いた。1971年ノーベル平和賞受賞。1974年5月、側近の一人が東独のスパイであった事件(ギョーム事件)の責任をとって首相を辞任したが党首の座にはとどまる。1979~1983年ヨーロッパ議会の議員。1987年引退し、SPD名誉党首。1988年回顧録執筆、翌1989年刊行。同年11月9日ベルリンの壁が崩壊し、分裂したヨーロッパを癒合するという彼の長年の夢の実現に道が開かれた。1990年1月中に東ドイツの20の都市で政治集会を開く。同年秋、クウェート紛争の調停のためバグダードを訪問、これが最後の国際平和運動となった。1991年秋重病となるも、社会主義インターなどの政治活動を続ける。1992年10月8日死去。

[中川原徳仁]

『直井武夫訳『平和のための戦い』(1973・読売新聞社)』


ブラント(Sir David Brunt)
ぶらんと
Sir David Brunt
(1886―1965)

イギリスの気象学者。ウェールズのモントゴメリー県の小村に生まれる。18歳のとき、ケンブリッジ等の数学優等資格をとり、ニュートン奨学資金も受けた。バーミンガム大学で数学を講義(1913~1915)したが、のちモンマウス師範学校でも数学を講じた。そのころ天文学に興味を抱き、ケフェウス型変光星や太陽物理について研究した。観測結果を整約することにも興味をもち、1917年には『観測値の整約』を書いた。第一次世界大戦中は、最後の2年間、陸軍・空軍のために天気予報をし、復員後は気象局内の陸軍部の監督官となった。1920年、W・N・ショーが気象局を退職し、ロンドン大学インペリアル・カレッジのパートタイムの教授となったとき、ブラントは講師として招かれた。そしてショーのあとを受け、イギリスで初めての気象学の大学教授となった(1934~1952)。

 1934年に書いた『物理的および力学的気象学』は、英文で書かれた最初の理論気象学書である。1939年刊行の改訂版の序文のなかでブラントは、「この本のなかには天気予報のことは書かれていない。予報について書くとするとさらに一冊の本が必要となるが、もしそれができたとしても、その本を精読するだけで天気予報ができるかどうかは疑わしい。天気予報にはもちろん物理理論による基礎が必要だが、純粋に理論的に行えることではなく、実践と経験をも必要とする一つの技術artである」という意味のことを述べている。

[根本順吉]


ブラント(Sebastian Brant)
ぶらんと
Sebastian Brant
(1457/58―1521)

シュトラスブルク生まれのドイツの法学者、詩人。母校バーゼル大学の人文主義的空気に触れ、詩作も試みた。とくに『阿呆船(あほうぶね)』(1494)は有名で、あらゆる階級の人々を阿呆船の乗組員や乗客にたとえ、その無知、迷誤、不正を厳しく批判した。全編112章の風刺詩や教訓詩からなり、各章に添えられた木版画とともに一時全ヨーロッパを風靡(ふうび)し、「阿呆(愚者)文学」のはしりとなった。

[尾崎盛景]

『尾崎盛景訳『阿呆船』上下(1968、84・現代思潮社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ブラント」の意味・わかりやすい解説

ブラント
Sebastian Brant
生没年:1458-1521

ドイツの作家。風刺文学《阿呆船(愚者の船)Das Narrenschiff》(1494)の作者。シュトラスブルク(現,ストラスブール)に生まれ育ち,長じてバーゼル大学に学生としてさらに法学部教授として25年間席を暖めたが,シュワーベン戦争の結果スイスが神聖ローマ帝国から事実上独立しバーゼルもこれに加盟の勢いとなるに及んで,国王マクシミリアン1世(のちの神聖ローマ皇帝)を信奉するブラントは,職を辞しシュトラスブルクに帰郷(1500)した。その後帝国自由都市シュトラスブルクの書記官長として終生その発展のため尽くした。啓蒙的著作活動はもっぱらバーゼル時代に集中しているが,これには印刷業者で人文主義的教養人であったオルペとの交友があずかって力あろう。とりわけ《阿呆船》は,個人および社会の悪徳や宿弊を,〈罪〉ではなく〈痴愚〉としてとらえ,笑いただそうとする陽性の視点で,さまざまな〈阿呆〉を謝肉祭の行列もどきに登場させるレビュー式展開をとり,ペテロの船(教会)ならぬ阿呆船のアレゴリー,そして全112章にもれなく版画を添えた趣向によって,一般市民の好評を博した。またこれによって,後の一連の〈阿呆文学Narrenliteratur〉の祖となった。
執筆者:


ブラント
Bill Brandt
生没年:1905-83

イギリスの写真家。ロンドンに生まれるが,子供のころはドイツで過ごす。スイスで病気療養中に写真に興味を持ち,本格的に写真を始めた。その後パリへ出て,1929-30年の間M.レイアシスタントを勤め,そこでE.アッジェ,E.ウェストン,ブラッサイの写真に触れ,また親交のあったシュルレアリストたちの影響を受けた。31年ロンドンに戻り,フリーの写真家としての活動を始める。イギリス人の日常生活のドキュメントや第2次大戦中のロンドン空襲下の市民の生活を記録した写真は,ジャーナリズムの枠を越えた深い内面性をもつものであった。戦後は,イギリスの文学風土をテーマとした風景や50年代には超広角レンズをつかって極度にデフォルメしたヌード写真のシリーズなどの写真を撮り,写真表現に新しい地平をもたらした。また彼のつねに深い陰影をもつポートレートは,人間の奥底にひそむドラマを感じさせるものである。あらゆる領域におよぶブラントの写真は,〈強い内面性にささえられた現実感〉を,見るものにもたらすものである。
執筆者:


ブラント
Willy Brandt
生没年:1913-92

西ドイツの政治家。社会主義青年運動に参加。1933年亡命,ジャーナリズム活動に従事しつつ反ファシズム運動に参加。47年西ドイツに戻り,西ベルリンのドイツ社会民主党指導者となり,49-57年連邦議会議員,57-66年西ベルリン市長,1964年社会民主党党首,66年キリスト教民主同盟との大連合政府で副首相兼外相,69-74年自由民主党との連立政権の首相を務める。彼のもとで東ドイツ,ソ連など社会主義諸国との関係改善を目ざす東方政策が進展した。1971年ノーベル平和賞受賞。74年5月,秘書のギヨームが東ドイツのスパイであったことが判明して辞職したが,党首の地位は保持した(1987年党首を辞任)。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブラント」の意味・わかりやすい解説

ブラント
Brandt, Willy

[生]1913.12.18. リューベック
[没]1992.10.8. ボン近郊
西ドイツの政治家。本名 Karl Herbert Frahm。 1930年社会民主党 SPDに入党,1933年第三帝国の成立とともにノルウェーに亡命,帰化して,ウィリー・ブラントと名のった。その後ノルウェー,スウェーデンでジャーナリストとして活躍。ベルリンでの地下活動やスペイン内乱に参加したが,ソ連での粛清,スペインでの共産党の活動などをみて共産主義に批判的となった。第2次世界大戦後ドイツに戻り,1948年社会民主党の再建に協力,ドイツ国籍に戻り,ソ連によるベルリン封鎖を契機として政治の表舞台に登場。 1949~57年連邦議会議員,1957~66年西ベルリン市長,1964年社会民主党党首。 1966年キリスト教民主同盟 CDUとの大連合内閣の副首相兼外相,1969年自由民主党との小連合内閣の首相に選ばれた。以後緊張緩和外交 (東方外交) を推進,東西ドイツ基本条約締結などの成果をあげ,1971年にノーベル平和賞受賞。 1974年5月ギヨーム事件の責任をとり,首相を辞任。その後,社会民主党党首の地位にとどまって社会主義インターナショナルの平和路線を推進し,ヨーロッパからの中距離核戦力全廃を求める「ゼロの選択」提案を行なうなど,国内政治,国際政治両面で陰然たる力を保ち続けた。

ブラント
Brant, Sebastian

[生]1457. シュトラスブルク
[没]1521.5.10. シュトラスブルク
ドイツの詩人,法律家。バーゼル大学で法律,神学を学び,教鞭をとった。シュトラスブルクに戻ってからは市の官吏をつとめた。人文主義者たちと関係をもったが,その姿勢は依然として中世の伝統に結びついていた。法学上の著作やラテン語詩,翻訳があるが,最大の傑作は,韻文によるアレゴリー『愚者の船』 Das Narrenschiff (1494) である。「愚者の天国」へ船出する 100人余の馬鹿者を登場させて,あらゆる階層の愚行を風刺,人間の愚かさ,いたらなさを攻撃したもので,同時代の最も著名な作品となり,ラテン語をはじめ各国語に翻訳され,のちの愚者文学に大きな影響を与えた。

ブラント
Brandt, Max August Scipio von

[生]1835.10.8. プロシア
[没]? ワイマール
幕末~明治初期の駐日プロシア公使。開国・通商条約締結のため極東諸国に派遣された F.A.オイレンブルク伯の使節随員として万延1 (1860) 年7月来日,日普修好通商条約の締結に尽力。文久2 (62) 年 11月 15日駐日総領事兼外交代表として横浜に着任。慶応3 (67) 年3月代理公使に昇任。戊辰戦争の終期には,局外中立を撤廃し新政府を承認することに難色を示した。明治3 (70) 年北ドイツ連邦代理公使,次いで同5年弁理公使。 1875年清国駐在公使に転じ,93年引退。著書"33 Jahre in Ost-Asien" (1901~02) 。

ブラント
Brant, Joseph

[生]1742. オハイオ川流域
[没]1807.11.24. オンタリオ,ブラントフォード付近
アメリカインディアン,モホーク族の族長。イギリスの北部アメリカインディアン監督官 W.ジョンソン卿の義兄弟。フレンチ・アンド・インディアン戦争 (1754~63) とアメリカ独立戦争 (75~83) では,イロコイ6民族連盟中4民族を率いてイギリス側に立って戦った。独立戦争後,平和的解決を望み,マイアミ族など西方の諸民族とアメリカとの仲介役をつとめた。晩年カナダのオンタリオ州グランド河畔に土地を得て移住。イギリス国教会伝道師として伝道に従事し,祈祷書や福音書をモホーク語に翻訳し教会を設立した。

ブラント
Brandt, Georg

[生]1694.7.21. リッダリタン
[没]1768.4.29. ストックホルム
スウェーデンの化学者。 H.ブールハーフェのもとで医学と化学を学んだ。 1727年鉱山局の分析主任になり,その3年後造幣局長官になった。 30年にコバルトを発見・分離した。ヒ素化合物,アンチモン,ビスマス,水銀,亜鉛の研究でも知られる。 50年にウプサラ大学の初代化学教授に就任,後進の育成に努めた。

ブラント
Blunt, Wilfred Scawen

[生]1840.8.17. サセックス,ペットワースハウス
[没]1922.9.12. サセックス,ニュービルディングズ
イギリスの詩人。外交官となったが結婚とともに辞職し,アラブ馬の育成に努めた。詩集『プロテウスの愛のソネット』 The Love Sonnets of Proteus (1880) で認められた。アイルランド,エジプト,インドなどの民族主義運動の弁護者としても知られる。

ブラント
Brand, Hennig

1670年頃ハンブルクに在世したドイツの化学者。「賢者の石」を捜していたために「最後の錬金術師」といわれることもある。 69年,尿の中から暗闇で光るものを発見し,これをリン phosphorus (発光物) と名づけた。

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百科事典マイペディア 「ブラント」の意味・わかりやすい解説

ブラント

英国の写真家。ロンドン生れ。病気療養のため,子ども時代のほとんどをドイツとスイスで過ごす。1925年より独学で写真を学ぶ。1929年パリに移住,1930年までマン・レイの助手を務める。アッジェブラッサイ,また,当時のパリのシュルレアリストたちに影響を受ける。1931年帰国。《ウィークリー・イラストレーテッド》《ピクチャー・ポスト》《ベルブ》誌などに写真を提供する。1939年―1945年,《リリパット》誌の専属写真家となる。第2次大戦前の不況下の英国の生活を丹念にとらえ,写真集《家庭のイギリス人》(1936年),《ロンドンの夜》(1938年)などにまとめた。1945年よりフリーランスの写真家として活動。1941年偶然に購入した広角レンズのついたコダックのボックス・カメラで,極度にデフォルメされた女性ヌードを撮り始め,これらの写真は1961年《裸体のパースペクティブ》として出版された。

ブラント

西ドイツの政治家。早くから反ナチ運動に加わり,1933年ノルウェーに亡命。第2次大戦後帰国し,ドイツ社会民主党に属して1957年西ベルリン市長,1964年党首,1966年連立内閣で副首相兼外相,1969年連立内閣首相となり,東ドイツとの国交正常化を実現。1974年国家機密漏洩事件で辞任。1979年―1982年社会主義インターナショナル議長。1971年ノーベル平和賞。
→関連項目シュミットドイツ独ソ武力不行使条約

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朝日日本歴史人物事典 「ブラント」の解説

ブラント

没年:1920(1920)
生年:1835.10.8
幕末明治期に来日したドイツの外交官。プロイセンの著名な将軍で軍事著述家の子としてベルリンに生まれる。陸軍中尉で退役,東アジア遠征隊に全権使節オイレンブルクの随員として参加。帰国後日本プロイセン修好通商条約下初の駐日プロイセン領事に任じられ,条約の発効期日文久2年11月12日(1863.1.1)神奈川(横浜)に着任。慶応3(1867)年代理公使へ進み,駐日外交団の一員として外交活動を開始,列国共同の態勢で維新の激動に対処。後発国プロイセンの権益確保に腐心。北ドイツ連邦の成立(1867)に伴い明治1(1868)年その代理公使兼総領事となり,2年1月10日日本北ドイツ連邦修好通商航海条約を締結。ドイツ帝国成立の翌5年駐日ドイツ弁理公使に昇任。1875年駐清特命全権公使へ栄転し,1893年30年有余の極東勤務に終止符を打ちワイマールへ引退。なお,明治15年12月,壬午事変後の対清関係をおもんばかる日本政府により勲1等旭日大綬章を授与される。

(廣瀬靖子)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブラント」の解説

ブラント
Willy Brandt

1913~92

ドイツの政治家。社会民主党(SPD)が出した西ドイツ最初の首相(在任1969~74)。リューベックに生まれ,少年期から社会主義運動に入ったが,ヒトラーの政権掌握後,名を変えて(本名 H.フラーム)ノルウェーに亡命,ジャーナリストとして活動した。戦後ドイツに帰国,西ベルリンのSPDを指導して1957年同市長となる。党内改革派の領袖として64年SPD党首に選ばれ,69年,自由民主党(FDP)との連立政権で首相となる。首相在任中,国内改革と新東方外交の推進に精力的に取り組んだ。西ドイツとソ連,東欧諸国間の関係正常化と東西間の緊張緩和に貢献した功績により,71年ノーベル平和賞を受賞。74年,秘書のスパイ容疑で首相を辞任するが(87年まで党首),その後も社会主義インター議長など,国際的政治家として活躍した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ブラント」の解説

ブラント
Willy Brandt

1913〜92
ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の政治家
本名はヘルベルト=フラームというが,反ナチス抵抗運動時代の変名をそのまま使用。1957〜66年西ベルリン市長をつとめたが,この間,64年に社会民主党党首となる。1969年には自由民主党と連立内閣をつくって首相に就任し,西ドイツの外交をアデナウアー以来の冷戦外交から転換,ソ連・東ドイツとの協調をめざす東方政策を展開した。1971年ノーベル平和賞を受賞。1974年5月,秘書のスパイ事件で引責辞職した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ブラント」の解説

ブラント Brandt, Max August Scipio von

1835-1920 ドイツの外交官。
1835年10月8日生まれ。万延元年(1860)日本-ドイツ通商条約締結のためオイレンブルク公使の随員として来日。文久2年初代駐日領事として横浜に着任。明治元年北ドイツ連邦総領事,5年駐日ドイツ全権公使となり,対日外交に活躍した。享年85歳。ベルリン出身。

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367日誕生日大事典 「ブラント」の解説

ブラント

生年月日:1835年10月8日
ドイツの外交官
没年不詳年没

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世界大百科事典(旧版)内のブラントの言及

【デタント】より

…とすれば,デタントの意味が,東西間のみか,西側内部でも異なり,それが原因でデタントが崩れるのも不思議ではない。
[戦術的概念として]
 たとえば,東方政策で東側とのデタントに成功を収めた西ドイツのブラント首相の場合には,目的‐手段のこの二重性が濃厚であった。すなわち,デタントは,武力の否認と現状維持(ステータス・クオstatus quo)の相互尊重に立脚し,和解,理解,協力という継続的段階をもつ長期的な過程として認識されて,その目標は,まずNATO(ナトー)とワルシャワ条約機構間の軍事的対決を軍備管理と政治的・経済的協力の増大によって緩和し,もってヨーロッパの安全保障システムの安定化をはかり,それをさらに東西の政治的・社会的体制の漸進的融合を含むヨーロッパ平和構造へと発展させるという遠大な構想であった。…

【ドイツ社会民主党】より

…政策転換の効果は60年代になって現れた。63年オレンハウアーの死後,翌64年西ベルリン市長のブラントが党首となり,66年にはCDU/CSUと大連立政権を構成する。立役者は後に院内総務として実力をふるったウェーナーHerbert Wehner(1906‐90)であった。…

【ドイツ連邦共和国】より

…連邦首相は,1949‐63年のアデナウアー,1963‐66年のエアハルトLudwig Erhard(1897‐1977),1966‐69年のキージンガーKurt Georg Kiesinger(1904‐88。いずれもCDU),1969‐74年のブラント,1974‐82年のシュミットHelmut Schmidt(1918‐ 。いずれもSPD),1982年以降のコール(CDU)の6人であり,そのうちアデナウアーは14年間も首相として,初期の旧西ドイツ政界に絶大な影響を及ぼしたが,コールは14年間の記録を破った。…

※「ブラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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