神奈川宿(読み)かながわじゆく

日本歴史地名大系 「神奈川宿」の解説

神奈川宿
かながわじゆく

東海道宿駅の一つ。たきの川を挟んだ東の神奈川町と西の青木あおき町とで構成される。宿の長さ三二町四〇間のうち町並一八町二九間、道幅三―四間、東海道に面して神奈川町は東から並木なみき町・しん町・荒宿あらじゆく町・十番じゆうばん町・九番くばん町・なかの町・西にしの町と続き、青木町は東からたきの町・久保くぼ町・みやの町・もと町・七軒しちけん町・下台しもだい町・上台かみだい町の各町と枝郷軽井沢かるいざわ(現西区)が続き、ほかに仲の町から西北小机こづくえ(現港北区)へ通ずる道沿いに飯田いいだ町、南の海岸方面に浜横はまよこ町・猟師りようし町・小伝馬こでんま町などがある(東海道宿村大概帳・風土記稿)。上台町・下台町は景色がよく、上台町は「入海の上にて景色いと美なり、こゝを神奈川の台と称して旅人も必足をとゞめていこふ所なり」(風土記稿)と述べ、安藤広重の東海道五十三次のうち神奈川の絵は下台町の片町辺りで、「東海道中膝栗毛」初編には「金川の台に来る。爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたつてよし」と記している。

戦国時代末期と思われる年未詳九月六日の弥阿書状(県史三)追而書に「神奈河より藤沢へ被罷立候砌、伝馬小々借預候者、可為満足候由」とあって、伝馬の借用を依頼している。慶長元年(一五九六)一〇月の石切伝馬手形(駅逓志料)には江戸から小田原までの宿名がみえ、そのなかに「かの川」があるから、戦国期以来の宿駅であった。

江戸幕府による宿設定は慶長六年正月の伝馬朱印状(武州古文書)が当宿宛のものと推定され、同月保土ほど宿(現保土ヶ谷区)に出された伝馬定書(県史九)にも「下ハ神奈川迄之事」とあるので、同年であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「神奈川宿」の解説

神奈川宿
かながわしゅく

東海道の宿駅(現,横浜市)。神奈川町と青木町で構成。1843年(天保14)の町並18町29間,人口5793人,家数1341軒,うち本陣2・旅籠屋58,定人馬100人100疋,うち定囲5人5疋・臨時御用囲25人15疋。御城米(おしろまい)船・八丈島御用船などに関する触があった場合は役船を提出した。58年(安政5)に調印された日米修好通商条約により開港場に指定され,領事館が設けられたが,横浜開港にともない,62年(文久2)領事館は横浜に移転

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の神奈川宿の言及

【神奈川】より

…1395年(応永2)神奈河郷は上杉憲定に安堵され,後北条氏の時代には奉行人宗甫が8貫500文,南条馬寄矢野彦六が100貫文の役高を神奈川にもっていた。【田辺 久子】 徳川氏の関東入国後の1601年(慶長6)家康の伝馬掟朱印状が下され,のち,青木町と神奈川町の2ヵ所を合わせて一宿とし,神奈川宿と称した。そして近辺の40ヵ村が助郷村に指定され人馬を提供した。…

※「神奈川宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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