神鞭知常(読み)こうむちともつね

改訂新版 世界大百科事典 「神鞭知常」の意味・わかりやすい解説

神鞭知常 (こうむちともつね)
生没年:1848-1905(嘉永1-明治38)

明治期の官僚政治家。丹後国与謝郡に生まれる。1870年(明治3)に宮津藩下級役人として上京,そのまま英学修得に専念し,星亨に見いだされて大蔵省に入る。河瀬秀治に誘われて内務省勧業寮に移り,75年にアメリカに派遣され,貿易と商工業事情の調査に従事した。帰国後大蔵省に戻り,87年主税局次長の時解任された。退官後小名木川綿布会社の社長に就任し,また90年の第1回総選挙に京都府から当選した(以後当選7回)。92年伊藤博文内閣の条約改正交渉に反対して内地雑居講究会結成し,翌年同趣旨の団体と連合して大日本協会の結成に尽力した。第2次松方正義内閣,第1次大隈重信内閣法制局長官となる。第1次大隈内閣退陣後憲政本党に入党し,のち近衛篤麿の国民同盟会に参加した。官吏,実業家,政党,〈対外硬〉団体のすべてを経験した明治人の一典型である。
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関連語 坂野 旧名

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「神鞭知常」の解説

神鞭 知常
コウムチ トモツネ


肩書
衆院議員(憲政本党)

旧名・旧姓
旧姓=鞭

別名
号=謝海

生年月日
嘉永1年8月4日(1848年)

出生地
丹後国与謝郡石川村(京都府)

経歴
安政6年京都で働き、帰郷後元治元年再上洛、蘭学漢学を学んだ。宮津藩に仕え、明治3年上京、英学を修めた。5年星亨と知り、6年大蔵省十一等出仕となり、米国出張。12年大蔵省一等属、14年農商務省にも務め17年大蔵省権大書記官から主税局次長、局長となった。23年衆院議員となり当選7回。31年安部井盤根らと大日本協会を組織。29年松方内閣、31年大隈内閣の各法制局長官。以後憲政本党に属し、国民同盟会、対露同志会を組織、対外硬派の指導的地位にあった。

没年月日
明治38年6月21日

家族
息子=神鞭 常孝(大蔵官僚)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「神鞭知常」の解説

神鞭知常 こうむち-ともつね

1848-1905 明治時代の官僚,政治家。
嘉永(かえい)元年8月4日生まれ。もと丹後(京都府)宮津藩士。明治6年大蔵省にはいり,19年主税局次長。23年衆議院議員(当選7回,憲政本党)。第2次松方・第1次大隈内閣の法制局長官をつとめる。対露強硬論で知られた。明治38年6月21日死去。58歳。

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367日誕生日大事典 「神鞭知常」の解説

神鞭 知常 (こうむち ともつね)

生年月日:1848年8月4日
明治時代の官僚;政治家。衆議院議員
1905年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の神鞭知常の言及

【対露同志会】より

…しかし,ロシア軍の満州からの第2期の撤兵が実行されないことが明らかになると,再び活動を活発化させ,03年4月8日,対外硬同志大会を上野公園梅川楼で開催,さらに戸水寛人ら7博士の対露開戦の主張(七博士建白事件)などが行われるなかで,同年8月9日,対外硬同志会は神田錦旗館で大会を開き,対露同志会と改称した。9月には,会長に病臥中の近衛篤麿を推し,委員長には神鞭(こうむち)知常が就き,頭山満ら7人の相談役をおいた。10月5日,歌舞伎座で全国大会を開き,対露開戦を主張。…

※「神鞭知常」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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