日露戦争に際して,対露強硬論を主張した国家主義団体。義和団事件後,ロシアの満州駐兵に反対して近衛篤麿らは国民同盟会を組織したが,1902年4月12日〈満州還付に関する露清協約〉が調印されたのを機として解散した。しかし,ロシア軍の満州からの第2期の撤兵が実行されないことが明らかになると,再び活動を活発化させ,03年4月8日,対外硬同志大会を上野公園梅川楼で開催,さらに戸水寛人ら7博士の対露開戦の主張(七博士建白事件)などが行われるなかで,同年8月9日,対外硬同志会は神田錦旗館で大会を開き,対露同志会と改称した。9月には,会長に病臥中の近衛篤麿を推し,委員長には神鞭(こうむち)知常が就き,頭山満ら7人の相談役をおいた。10月5日,歌舞伎座で全国大会を開き,対露開戦を主張。政府の“優柔不断”を攻め,かつ天皇への上奏を行うなど,日露開戦をあおる活動を展開し,開戦の後いったん解散した。しかし講和会議が具体化されてくると,05年7月19日,対露同志会などは講和問題同志連合会を組織し,講和談判におけるロシアへの譲歩に反対する活動をくりひろげた。
執筆者:中塚 明
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日露戦争前後の対外硬(たいがいこう)運動組織。1903年(明治36)7月25日、帝国党、中正倶楽部(くらぶ)、同志集会所、議員集会所の各党派所属の代議士および朝鮮協会(旧国民同盟会の一部が組織したもの)員らが会合し、結束して対露問題に取り組むことを申し合わせ、ついで8月9日同志結集の大会を東京・神田(かんだ)錦輝(きんき)館で開催し、席上、対露同志会なる会名で以後活動することを決議した。彼らは同大会において、ロシア軍を満州(中国東北)から撤兵させ、同地を各国に開放させることはわが国の「天職」であると主張し、これらの実現を政府に要求していくことを決議した。以後、閣僚訪問、演説会などを通じて対露決戦への世論誘導に大きな役割を果たした。神鞭知常(こうむちともつね)(委員長)、佐々友房(さっさともふさ)らがリーダーであった。会は神鞭死去(1905年6月)後衰退し、日比谷(ひびや)焼打事件後に解散した。
[酒田正敏]
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対露強硬論を唱えた国家主義団体。1903年(明治36)4月8日(ロシアの満州撤兵第2期限),対外硬派はふたたび対露外硬論を唱えて動きだした。この日の対外同志大会,7月25日の対外硬派連合委員会,そして8月9日の対外硬同志大会へと運動は拡大。対露同志会は8月9日の対外硬同志大会で採用された名称。運動の中心は帝国党・中正倶楽部・議員集会所・同志倶楽部・玄洋社・朝鮮協会グループなど。リーダーは近衛篤麿(あつまろ)・神鞭知常(こうむちともつね)・佐々友房・鈴木重遠・頭山満(とうやまみつる)など。元老や首相・外相・陸相・海相などを督励,地方演説会などで日露開戦世論を高めた。05年10月17日解散。
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