福沢村
ふくざわむら
[現在地名]高畠町福沢・山崎
津久茂村の南に位置し、米沢街道が通る。枝郷に山崎村がある。慶長一七年(一六一二)に開かれた村で、当国覚書(沼沢文書)に「鈴木十左衛門八代郷ノ野府・谷地切立、鈴木一門中手作田屋于今有之、寛六より御作事や間六間宛相勤候事」とある。ただし笹野観音通夜物語(市立米沢図書館蔵)は開村を同七年とする。近世初期の邑鑑にはみえないが、正保郷帳には村名が載り、田方一千四五二石余・畑方二六六石余(山崎村分を含む)。開村以後幕末まで米沢藩領。
福沢村
ふくさわむら
[現在地名]大山町東福沢
神通川水系熊野川の左岸に位置する。熊野川右岸の現富山市西福沢と同一村で福沢と称してきたが、近世初頭熊野川の流路変更によって地内が分断された。万治三年(一六六〇)の加賀藩と富山藩との領地替によって、南側は加賀藩領、北側は富山藩領となった。正保郷帳の高一千一五二石余、田方七〇町二反余・畑方六町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高九六四石余、免五ツ二歩、小物成は山役四〇二匁・漆役六匁・蝋役二九匁・鮎川役二六匁(うち一八匁出来)・鱒役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。
福沢村
ふくさわむら
[現在地名]富山市西福沢
熊野川右岸沿いに位置し、北は今町村。中世は現大山町にまたがる福沢郷のうちに含まれていた。丸山の福沢城は元亀二年(一五七一)頃に塩屋秋貞が津毛城(現大山町)攻めの出城として築いたという(三州志)。天正一一年(一五八三)二月二八日の上杉景勝契約状(東京大学史料編纂所蔵杉原謙文書)によると、寺嶋民部左衛門旧領の「ふくさわ付おうら」などが勲功の賞として大関親憲に与えられている。
福沢村
ふくざわむら
[現在地名]茅野市豊平 福沢
西は上川を隔てて埴原田村に接し、東には台地が南北に続き、南大塩村・上菅沢新田村・下菅沢新田村・中村と境を接する。
北東部の中原台地には縄文中期・後期の中原遺跡があり、南部の蟹田には弥生時代の遺跡がある。古村の一つで、大祝職位事書の建武二年(一三三五)の条に「古田神主 白米三升 三ケ村 百文古田 福沢卅二文百文南大塩 中村布代六十五文」とあるのを初見とする。また、前田本神氏系図には「大祝頼嗣猶子譲与諏訪郡大塩御牧内福沢村以下」とみえている。天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)には「高百四拾石七斗四升 福沢郷」と記されている。
福沢村
ふくざわむら
[現在地名]太田市福沢
細谷村の東にあり、西境を蛇川が南流する。北は岩瀬川村、東は高林村、南は富沢村。地勢は全村平坦で村央を太田町―牛沢を結ぶ里道が南北に貫く。当村および富沢・牛沢・米沢各村付近を「和名抄」沢野郷に比定する説もある。天正一九年(一五九一)の検地帳(萩原文書)では田方八町小余(上田三町二反半余・中田四町六反余・下田一反大余)、畠方八町三反余(上畠一町余・中畠一町五反余・下畠五町七反余)、上屋敷三反余で地字に北うら、屋敷前がみえる。慶安三年(一六五〇)の検地帳(同文書)では「勢田郡福沢村」とあり、田方一〇町二反余(上田三町七反余・中田五町二反余・下田一町二反余)、畑方一五町九反余(上畑一町九反余・中畑二町二反余・下畑八町二反余・下々畑三町六反余)、屋敷九反余。
福沢村
ふくさわむら
[現在地名]佐用町福沢
本位田村の北西に位置し、佐用川の支流江川川の左岸に大向・田野・清水・大塚の四集落、右岸の谷間に本村集落、西方の標高四三六メートルの大撫山に続く山中に大谷集落がある。慶長国絵図に福沢村とみえる。江戸期の領主の変遷は当初は佐用村に、寛永一七年(一六四〇)以降は本位田村に同じ。正保郷帳では田方四二二石余・畠方一四四石余。
福沢村
ふくざわむら
[現在地名]福山町福沢
福山郷福山村の東、火山灰台地上にある。福山郷に属した。はじめ天正八年(一五八〇)に設置された福山野馬牧のうちであった。安永八年(一七七九)の桜島大噴火による降灰砂の被害が大きく、牧の一部が廃止された。同一〇年藩はその地に西目地区から農民八七戸・郷士六戸を移住させて開拓を進め、天明八年(一七八八)までに川路原・新原の二地区が開かれた。この二地区に福山村内に開発されていた国師地区と合せて一村とし、福沢村と称したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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