日本歴史地名大系 「稲田村」の解説 稲田村いなだむら 大阪府:東大阪市旧布施市地区稲田村[現在地名]東大阪市稲田・楠根(くすね)一―三丁目・七軒家(しちけんや)一―二丁目など若江郡に属し、新開(しんかい)池に開発された橋本(はしもと)新田の南にある。大和川付替えまでは菱江(ひしえ)川・楠根川が村の西部で合流していたが、宝永二年(一七〇五)から水量の減少した菱江川川床に菱屋東(ひしやひがし)新田が、楠根川川床に菱屋中(ひしやなか)新田が開発され、稲田村域内に細長く存在した。平坦・低湿である。天正一一年(一五八三)八月一日、稲田村八〇石余が豊臣氏の蔵入地とされ、一柳直末が支配(一柳家文書)。 稲田村いなたむら 島根県:仁多郡横田町稲田村[現在地名]横田町稲原(いなはら)樋口(ひぐち)村の南に位置する。南は原口(はらぐち)村。永享二年(一四三〇)仙洞御所御料所代官であった安部宣豊は八川(やかわ)から開拓の進捗した当地に居を移し、屋敷内に山城伏見稲荷を勧請、永正六年(一五〇九)三沢氏が藤(ふじ)ヶ瀬(せ)城へ移ったのち代官を退いたという。子次良兵衛は天文一〇年(一五四一)三月岩屋(いわや)寺本堂再建立にあたり尼子経久・三沢為幸・同家臣石原義扶らとともに仏壇厨子を寄進している。その子源太左衛門は稲田村の下馬(げば)の水田一〇町歩の開発を進め、源太(げんた)井手の開削も行い、永禄一〇年(一五六七)丘陵地の現在地に土居・堀をもつ屋敷を構えて移ったという。尼子氏に仕え稲田村で一七〇石、乃木(のぎ)村(現松江市)で三三〇石を知行していた(「安部家家譜」安部家文書、「快円日記」岩屋寺文書など)。 稲田村いなだむら 福島県:喜多方市稲田村[現在地名]喜多方市岩月町(いわつきまち)橿野(かしわの)下台(しもだい)村の北東にあり、北西は上田(うわだ)村。小田付組に属し、本村の南に小名原田(はらだ)がある。鎮守白山神社総門の冠木が巨大なので古くは冠木(かぶき)村と称していたという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に稲田とみえ、高六五五石余。寛文五年(一六六五)の「小田付組土地帳」によると高六六八石余、免三ツ三分二毛余、反別は田方三二町九反余・畑方一一町二反余、家数二八(竈数二九)、男八五・女七三、馬三。綿役金一両一分・同銀五匁一分五厘、山役銀一匁、新紙役一束・役漆木一一二本九分などを負担していた。村人には畳表を織り商売している者が多かった。 稲田村いなだむら 茨城県:勝田市稲田村[現在地名]勝田市稲田大(おお)川の上流にあり、北は沢(さわ)村。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「いなた 上たかは 下たかは」とみえ、佐竹氏の一族東義久の知行地であった。慶長七年(一六〇二)の万千代様水戸領知行割(彰考館蔵)に「稲田」と書かれ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「稲田村」とある。「水府志料」によると戸数およそ五七。今鹿島(いまかしま)神社は寛文三年(一六六三)の鎮守開基帳(彰考館蔵)に「今鹿島明神」は天正一七年(一五八九)の額田の乱で焼けたとあり、享保九年(一七二四)の上高場村鎮守并稲田村今鹿島宮建立之覚書(「勝田市史」所収)は、稲田村の鹿志村氏、上高場(かみたかば)村の松本氏、下高場村の飛田氏の各先祖が建立したという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by