稲積庄(読み)いなづみのしよう

日本歴史地名大系 「稲積庄」の解説

稲積庄
いなづみのしよう

市南部に比定される。「吾妻鏡承久三年(一二二一)七月二九日条によれば、小笠原長清は承久の乱の首謀者の一人である源有雅を「稲積庄小瀬村」まで連行し、処刑している。小瀬こせ町の富士塚は有雅の霊を祀るといわれ(甲斐国志)、現在も小瀬団地内に塚が残る。長清が当庄の地頭であった確証はないが、建暦元年(一二一一)南方小曲おまがり遠光おんこう寺を創建したのは彼の父加賀美遠光といい、小瀬の諏訪神社の地は長清の館跡ともいわれるなど(甲斐国志)、関連事象が伝えられており、彼の拠点の一つであったと考えられる。成立年代は承久三年以前にさかのぼるが、その時期は明らかではない。

弘安八年(一二八五)四月二八日稲積本庄並びに加納法金剛ほうこんごう(現京都市右京区)の根本寺領として京都仁和寺御室によって寄進されている(「仁和寺御室性仁親王令旨案」法金剛院文書)


稲積庄
いなづみのしよう

現倉吉市の中西部、ほぼ東流する国府こう川中流域の上米積かみよなづみ・下米積を中心とした一帯に比定される皇室領庄園。当初後白河院領であったが、「玉葉」治承五年(一一八一)三月二五日条に「伯耆国稲積庄、去年被付国了」とある。「国に付せられる」とは所領支配を否定されて国衙の支配下に入ることで、同三年一一月に平清盛によって後白河院の院政が停止され、翌年当庄は一時的に国衙領となった。同年一二月に後白河院政が復活し、同五年三月には九条兼実が当庄を後白河院領に戻すことと、然るべき者に支配を委任することを上申している(同書前掲条)。一方、後白河院の院庁下文を受けた源頼朝は、寿永三年(一一八四)四月二四日、京都上賀茂社領に対する武士狼藉を停止し、神事用途を備進することを諸国に厳命しているが、この時の社領四二ヵ所のうちに伯耆国では当庄と星川ほしかわ(現会見町)みえ(「源頼朝下文写」賀茂別雷神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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