稲越村
いなごえむら
[現在地名]河合村稲越
稲越川に沿って長く開け、上流から字花の木までを上稲越、脇谷より下流を下稲越とよぶ。西は保村、東は低い湯峰峠を越えて信包村・黒内村(現古川町)。村名は稲肥からとも考えられる。中世稲越・信包・黒内三村の境に小鷹利城が築かれた。天正一三年(一五八五)金森長近が森茂(現大野郡清見村)より保を経て上稲越に至り、背面より小鷹利城を攻撃したという(飛騨編年史要)。慶長一八年(一六一三)の飛騨国郷帳では、小鷹利郷に属し、上いな越村高一八〇石・下いな越村高一〇〇石とある。元禄検地反歩帳では高一六六石余、田一五町余・畑二一町六反余。
稲越村
いなごえむら
[現在地名]金津町稲越
竹田川左岸の自然堤防上にあり、金津新町に隣接する北稲越と南方の南稲越の二集落からなる。「越前地理指南」は枝村として「出村」を記す。
村名は正保郷帳にみえ、田方四二一石余・畠方三五四石余。寛永元年(一六二四)以降丸岡藩領。村は十郷用水の一分流によって灌漑されたが、干害などに見舞われることが多かったようで、正保郷帳には「日損所」と記されている。元禄七年(一六九四)・同八年の年貢率は村高の一割九分一厘、天保八年(一八三七)には二割三分三厘であった。
稲越村
いなこしむら
[現在地名]市川市稲越町
国分川の谷津を挟んで国分村の北東に位置し、集落は台地上にある。南は曾谷村。江戸時代は幕府領で推移した(旧高旧領取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に「稲小路」とみえ、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二八三石余。天明四年(一七八四)の松戸宿の明細帳(山崎家文書)によると、国分村と隔年で同宿の助郷を勤め、水戸徳川家や諸大名家の通行時に人馬を差出すことになっていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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