翻訳|Corn Law
イギリスの法律。歴史的には1846年にいたるまでの穀物取引ないし輸出入の規制にかかわる法律をいう。12世紀から王政復古(1660)にいたるまでの穀物法は,消費者の保護をその主要な目的としており,とくに,中世末から15世紀にかけては,国内市場がなお十分に確立されていなかったこともあって,国内における穀物取引の規制,より具体的には,穀物の買占め,市場の独占,価格のつり上げ等の禁止に最大の力点が置かれた。穀物の自由な輸出は,国内の穀物価格が十分安い場合に限って認められ,輸入は,年々国内需要をまかなうに足るだけの生産があったので,ほとんど規制されなかった。だが,王政復古後になると,国内における穀物取引の規制はもはや不要となり,穀物の輸出入規制こそが穀物法の主要な目的となる。そしてこの時期には,消費者の立場よりも生産者の立場が優先して保護されるようになり,穀物の輸入が関税によって規制されただけでなく,1689年からは,輸出された穀物にたいして国が報奨金を支払う穀物輸出奨励金制度が実施された。次いで18世紀の後半にはいると,穀物法問題は,イギリスが穀物輸出国から輸入国に転じたこと,穀物輸出奨励金が年々の国家財政を圧迫するようになったこと,そして,産業革命を背景に自由貿易を主張するブルジョア階級が興隆するにいたったこと等の事情のため,複雑な政治問題の様相を呈するにいたり,19世紀には,地主対ブルジョアの階級対立の争点を形づくることになった。地主階級が多数を占めた議会は,1814年に穀物輸出奨励金制度を廃止したが,翌15年には,国内における穀物の高価格を維持する目的で,小麦価格が1クオーター当り80シリングに下がったときは小麦の輸入をいっさい禁止する,という反動的な穀物法を成立させた。この穀物法はその後3度にわたって改訂されたが,一方のブルジョア階級は,あくまでも自由貿易を強調して対抗し,38年にコブデンとブライトを指導者に反穀物法同盟を結成して議会に圧力をかけ,46年,ついにその撤廃に成功した。このできごとは,イギリス史上,事実上自由貿易を確立した事件として知られている。
執筆者:村岡 健次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
穀物、とくに小麦の輸出入に一定の制限を加えた法律。イギリスで14世紀以来しばしば制定された。当初は輸出に制限を加えることにより消費者への保護を図ろうとしたものであったが、1660年からは輸入に対して関税がかけられるようになり、生産者の保護に力点が置かれるようになった。とくにナポレオン戦争後の1815年には穀価が一定価格に達しない場合(小麦の場合は1クォーター当り80シリング)には穀物の輸入を禁止する法律が制定された。この法律は、当時の穀価の下落、輸入穀物の増加という状況のなかで地主・農業経営者の支持を受けて制定されたものであったが、生産品の輸出、原料の安価な購入と穀価および労賃の低額安定を望む商工業者はこの法律に強い不満を示すことになった。それぞれの利害を代表するマルサスとリカードとの間に論争がなされた(穀物法論争)のをはじめとして、地主・農業経営者と商工業者との間でこの法律の存廃をめぐって激しい対立が生じ、以後のイギリス社会の一つの問題点となった。その後1828年の改定で、穀価の変動によって関税を増減するという制度の導入も試みられたが、これはかえって投機をあおり、穀価を不安定なものとしたため、穀物法への反対を強めることになった。こうしたなかで自由貿易を主張する商工業者が反穀物法同盟を結成し根強い反対運動を続けたため、結局穀物法は1842年の改定を経て、46年の議会においてその廃止が決定された。この決定はイギリスの自由貿易政策への一つの転機をなすものであったとされている。
[岡本充弘]
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イギリスにおける農業保護立法。この種の法律は中世から存在したが,ナポレオン戦争の終結した1815年,外国産の安価な穀物の流入による価格の低下を恐れた地主,農業家が議会に働きかけて,成立させた。それにより国内価格が1クォート当り80シリング以下の場合は輸入は禁止された。のちに一部修正されたが,同法のために穀物の高価格が維持されることになり,綿業資本家を中心に反穀物法同盟が結成され,自由貿易の実現を期し,46年ピール内閣のもとで廃止された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…他の国々に先駆けて新工業技術をマスターしたという技術的優位のおかげで,この時期のイギリスは繊維製品をはじめとする工業製品の世界的・独占的供給者――いわゆる〈世界の工場〉――となり,他の農業国はイギリスに食糧と原料を供給することになった。重商主義の支柱として長い間貿易を制限してきた穀物法と航海法を撤廃し,1860年にはフランスとの間にコブデン=シュバリエ条約を締結して,イギリスが貿易自由化のリーダーとなり,世界貿易の拡大を推進しえたのも,その背景にこうした国際分業関係,相互依存関係が形成されており,それがイギリス経済の成長を規定する基本的要因となっていたからである。つまりこの時代のイギリスは〈世界の製鉄所,世界の運送業者,世界の造船業者,世界の銀行家,世界の工場,世界の手形交換所,世界の貨物集散地〉であり,世界の貿易はイギリスを基軸として動いていたのである。…
…1843年9月2日,銀行家兼下院議員で,銀行学派に属するウィルソンJames Wilsonによって,商業,工業,農業のあらゆる部門で,事実と密接な関連を保ちつつ,実際家に役に立つ記事を提供することを目的に,彼自身を主筆として創刊された。発刊当時は,実際上の主目標は穀物法の撤廃に置かれ,R.コブデン,J.ブライト,J.S.ミル,T.ホジスキンらの多くの論客が寄稿し,反政府的色彩が強かった。60年以降,女婿のW.バジョットが主筆となり,終生(‐1877)健筆をふるい,名編集者としてますます同誌の名声を高めた(当時の発行部数約3000部)。…
…だがこのとき,時代の趨勢は,すでに自由主義の側へと大きく傾いており,保守主義者ディズレーリのその後の進路は,けっして順風満帆とはいかなかった。40年代最大の政治問題は穀物法廃止,すなわち穀物貿易を自由化するかしないかという問題であったが,農業の利害に強く執着したディズレーリは廃止に反対であった。だが,時の保守党党首R.ピールは,このころマンチェスター派の自由貿易論者に改宗しており,こうして両者は真正面から対立するにいたった。…
…1840年代のイギリスにおいて自由貿易運動を推進した商工業者・銀行家の政治団体。1820年代から自由貿易を目ざす気運が急速に高まり,綿製品を中心に輸出入関税の軽減が着実に進んだが,国内産穀物の保護を定めた穀物法は,農業諸階級の広範な支持をうけ,議会を制していた地主階級もこの法律の撤廃には応じようとしなかった。しかし38年にいたって,ブルジョア階級の間に穀物法への反感が著しく高まり,マンチェスターの商工業者が中心となって反穀物法協会(翌年,同盟に改組)を結成した。…
…もともと彼は,経済の面では自由主義的で,自由貿易政策を支持してきており,政権につくや,関税引下げ政策をよりいっそう拡大した。その一方では,保守党党首として地主階級の伝統的な政治支配を国制の基礎とみなし,穀物の保護関税を定めた穀物法には賛成であった。しかし,反穀物法同盟を先頭に自由貿易運動が急激に高まるなかで45年のアイルランド大飢饉に直面したとき,彼は,社会全体の福利の実現という見地から,穀物法反対の立場に態度を一変させ,46年,ディズレーリを先頭とする党内右派の猛反対に抗してみずからの手で穀物法廃止法案を下院に上程し,自由党の支持を得て同法案を成立させた。…
※「穀物法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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