日本大百科全書(ニッポニカ) 「マンチェスター学派」の意味・わかりやすい解説
マンチェスター学派
まんちぇすたーがくは
Manchester school
19世紀の前半に、自由貿易主義を旗印にして、穀物法の廃止に努力した一群の急進思想家をさす。イギリスのマンチェスター商業会議所を根拠にして結集したため、こうよばれるようになった。その代表者はリチャード・コブデン、ジョン・ブライトである。
イギリスでは、フランス革命とそれに続くナポレオン戦争の結果、国内市場で穀物の値段が暴騰したのであるが、1815年にナポレオン戦争が終わり、大陸封鎖が解かれるとともに、海外から安い小麦が輸入され、それによってイギリスの穀物の価格は暴落する運命にさらされるようになった。そこで地主階級は議会の勢力を動員して穀物法を改正し、外国から輸入される穀物に高い関税をかけて、自国の穀物価格をつり上げた。
しかし、穀物価格をつり上げることは、労働者の賃金を高め、したがって利潤を減殺するので、当時の新興ブルジョアジーであった工業資本家の利益と相いれなかった。資本家にとっては、穀物の輸入を自由にし、賃金を低くし、安い工業品を輸出することによって外国市場を制覇することが得策だったのである。そこで綿布商人のコブデンと紡績業主のブライトとが中心となって、1838年に穀物法の廃止運動をおこし、アダム・スミスやリカードの理論をよりどころにして、筆に口に自由貿易の福音(ふくいん)を説いた。ジョン・ボーリングJohn Bowring(1792―1872)は公の会合で、「イエス・キリストは自由貿易であり、自由貿易はイエス・キリストである」と叫び、コブデンやブライトも「安いパンと高い賃金」をスローガンにして労働者階級をこの運動に引き入れて、一大キャンペーンを展開し、ついに首相ピールを動かして、1846年に穀物関税の撤廃を決意させるに至った。マンチェスター学派の主張は、フランス、ドイツ、イタリア、オランダにも共鳴者を生んだ。フランスのマンチェスター学派の代表者はバスティアであった。
[越村信三郎]
『北野大吉著『英国自由貿易運動史』(1943・日本評論社)』