穏地郡(読み)おちぐん

日本歴史地名大系 「穏地郡」の解説

穏地郡
おちぐん

島後どうごのほぼ西半部を占める。江戸時代、東に接する周吉すき郡との境は史料により異同があるが、現在の五箇ごか村と都万つま村の一部、西郷さいごう町の一部にあたる。古代には隠地・役道とも書かれ、中世には穏地(拾芥抄)近世には穏地・越智(越知)などの表記が用いられている。近代は穏地郡。

〔古代〕

平城宮跡出土木簡、平城京二条大路跡出土木簡、天平四年度の隠伎国正税帳(正倉院文書)に役道郡、長屋王家木簡、「続日本後紀」承和九年(八四二)九月一四日条には穏地郡とあり、「延喜式」「和名抄」では隠地郡とする。「和名抄」は都麻つま河内かむち武良むらの三郷を載せるが、平城宮跡出土木簡に「隠伎国役道郡奈□□」とみえ、奈良時代には四ヵ郷存在したと推定される。「養老令」戸令定郡条によれば当郡は下郡に相当し、天平四年度正税帳に大領・少領の署名がみえる。郡家は現五箇村こおりに推定される。前掲の二条大路跡出土木簡により当郡から海松・海藻・螺・乃利・鰒・軍布などが貢進されていたことが知られる。天平四年度には穀三千八二四石三斗六升余・粟四六石八斗六升・穎稲二千四六六束五把・糒七五石六斗七升六合・醤二石盛缶三口・末醤五斗盛缶一口を納入しており、正倉一三間のうち不動穀倉二・動用穀倉一・穎倉二・郡稲倉二・公用稲倉二・義倉一・糒倉一・空二。当時の郡司は大領が外従八位上大伴部大君、少領が外従八位下勲一二等磯部直万得。承和九年郡内の水若酢命神が官社に列しているが(「続日本後紀」前掲条)、「延喜式」神名帳では同社は名神大社となっており、現五箇村郡の水若酢みずわかす神社に比定される。ほかに同帳記載の伊勢命神社は五箇村久見くみ、天健金草神社は都万村都万の同名社にそれぞれ比定される。五箇村の重栖おもす平野、西郷中村なかむら平野に条里遺構がみられた。

〔中世〕

平安末から鎌倉・南北朝期頃の当郡内には近衛家領重栖庄と、山田やまだ別符(現五箇村)都万院那具なぐ(現都万村)の三つの国衙領があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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