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立原翠軒 たちばな すいけん

美術人名辞典の解説

立原翠軒

江戸後期の水戸藩儒。名は万、字は伯時、通称を甚五郎別号に東里・此君堂等。彰考館に勤めていた父の影響で早くから学問に関心をもち、江戸に出て徂徠学派大内熊耳、折衷学派の細井平洲に学ぶ。藩主徳川治保に用いられ、彰考館総裁となる。文政6年(1823)歿、80才。

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デジタル大辞泉の解説

たちはら‐すいけん【立原翠軒】

[1744~1823]江戸後期の儒学者。水戸藩士。名は万。字(あざな)は伯時。別号、東里。徂徠学と折衷学を学び、彰考館総裁となった。「大日本史」の校訂に努め、水戸藩政にも尽力。著「海防集説」「西山遺聞」など。

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百科事典マイペディアの解説

立原翠軒【たちはらすいけん】

江戸後期の儒学者。名は万(よろず),字は伯時(はくじ)。東里とも号す。常陸(ひたち)の人,水戸藩士。徂徠(そらい)派の大内熊耳(ゆうじ)に学ぶ。水戸に徂徠学をもち込み,藩の学風朱子学)に反するためいったんは排斥されたが,6代藩主徳川治保(はるもり)に認められ侍読(じどく)となり,のち1786年彰考館総裁となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

立原翠軒 たちはら-すいけん

1744-1823 江戸時代中期-後期の儒者。
延享元年6月7日生まれ。立原蘭渓の子。常陸(ひたち)水戸藩士。徂徠(そらい)学をまなび彰考館にはいり,天明6年総裁となる。「大日本史」校訂について門人藤田幽谷と対立して享和3年総裁を辞任。文政6年3月14日死去。80歳。名は万。字(あざな)は伯時。通称は甚五郎。別号に東里,此君堂(しくんどう)。著作に「西山遺聞」「此君堂文集」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

立原翠軒

没年:文政6.3.14(1823.4.24)
生年:延享1.6.8(1744.7.17)
江戸中・後期の儒学者。水戸藩士。名は万,字は伯時,通称は甚五郎。東里,此君堂と号し,致仕後に翠軒と改める。父蘭渓は彰考館文庫役。幼時藩士谷田部東壑に学び,宝暦13(1763)年江戸の彰考館の書写場傭に採用された。江戸で大内熊耳(荻生徂徠門人)に入門,また細井平洲 について中国語を学んだ。明和3(1766)年水戸の彰考館編修に転じ,天明6(1786)年小納戸役で彰考館総裁に昇進。寛政8(1796)年200石。総裁在職17年におよび,その間『大日本史』本紀,列伝の校訂に全力を傾け,出版のための定本を作成した功績は大きい。9年から『大日本史』編纂上の問題で門人藤田幽谷と対立,藩主徳川治保の信任を失って享和3(1803)年致仕を命ぜられ,総裁も辞任。文人としての趣味が豊かで書,画,篆刻などに長じ,特に能書家として知られる。<参考文献>前田香径『立原翠軒』,『水戸市史』中巻2

(鈴木暎一)

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世界大百科事典 第2版の解説

たちはらすいけん【立原翠軒】

1744‐1823(延享1‐文政6)
江戸後期の儒者。水戸藩士。名は万,字は伯時,通称は甚五郎,致仕後翠軒と号する。父蘭渓に学び,のち江戸に出て徂徠派の大内熊耳(ゆうじ)に入門したが,藩の学風(朱子学)に反するため排斥された。しかし6代藩主徳川治保(はるもり)に認められて侍読となり,1786年(天明6)彰考館総裁に就任し,《大日本史》編纂事業を再興した。門人に藤田幽谷・小宮山楓軒らを出し,著書に《此君堂文集》がある。【鈴木 暎一】

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大辞林 第三版の解説

たちはらすいけん【立原翠軒】

1744~1823) 江戸後期の儒学者。名は万、字あざなは伯時。水戸藩彰考館総裁として「大日本史」の編纂につとめ、藤田幽谷ら多くの門人を育成。著「西山遺聞」「海防集説」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

立原翠軒
たちはらすいけん

[生]延享1(1744).水戸
[没]文政6(1823)
江戸時代後期の儒学者。水戸藩の儒臣。名は万,字は伯時,通称は甚五郎。東里,此君堂などとも号した。父は彰考館管庫蘭渓で,父や藩士谷田部東壑,時田江南らについて学んだ。江戸に出て,徂徠学派の余熊耳 (よゆうじ) や折衷派の細井平洲についた。宝暦 13 (1763) 年彰考館員となり,天明6 (1786) 年彰考館総裁となった。主として『大日本史』,特に紀伝の校訂と刊行に努め,政治にも参与し,松平定信に上書して,蝦夷地や一向門徒など,「天下の三大患」について論じた。著書に新井白石安積澹泊との往復書簡を集めた『新安手簡』のほかに『西山遺聞』『郷党遺聞』『海防集説』『此君堂文集』『翠軒遺稿』などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

立原翠軒
たちはらすいけん
(1744―1823)

江戸後期の水戸藩の儒学者。名は万(よろず)、字(あざな)は伯時(はくじ)、通称甚五郎(じんごろう)。号は東里(とうり)、此君堂(しくんどう)、致仕後翠軒。父は水戸藩士立原豊(号蘭渓(らんけい))。徂徠(そらい)学派の田中江南(たなかこうなん)、大内熊耳(おおうちゆうじ)に学ぶ。1766年(明和3)彰考館(しょうこうかん)編修となるが、朱子学派に異端視され不遇をかこつ。1786年(天明6)小納戸役(こなんどやく)に進み、彰考館総裁に就任。1797年(寛政9)から『大日本史』の編纂(へんさん)方針をめぐって門人藤田幽谷(ふじたゆうこく)と対立、1803年(享和3)致仕を命じられ、総裁を辞任。この間『大日本史』の校訂に全力を傾け、定本を作成した功績は大きい。蝦夷地(えぞち)問題への関心も強く、1887年には老中松平定信に「天下の三大患」についての上書を提出、ロシアの脅威を説いた。著書は『西山遺聞(せいざんいぶん)』『楢林雑話(ならばやしざつわ)』『海防集説(かいぼうしゅうせつ)』『此君堂文集』など。能書家としても知られた。[小松徳年]
『前田香径著『立原翠軒』(1963・立原善重) ▽吉田一徳著『大日本史紀伝志表撰者考』(1965・風間書房)』

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367日誕生日大事典の解説

立原翠軒 (たちはらすいけん)

生年月日:1744年6月8日
江戸時代中期;後期の儒学者;水戸藩士
1823年没

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世界大百科事典内の立原翠軒の言及

【藤田幽谷】より

…水戸城下の古着商の子。幼時から利発で,藩の史局彰考館総裁の立原翠軒に儒学を学び,その推薦で彰考館に入り,やがて編修,総裁となるが,一時郡奉行を兼任する。幕末における内外の危機を深刻に受け止め,一方では経世に役だたぬ当時の儒学を批判し,儒学を実用の学に建て直そうとすると同時に,他方では対外的危機にあたって攘夷を鼓吹し,また藩財政の窮乏と農村の疲弊とが相互に因果をなす藩政の改革を唱道する。…

※「立原翠軒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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