江戸時代の儒学の一派。学派とはいっても朱子学派の場合のように一定の学説に基づく流派ではなく,江戸中期に輩出した折衷学者たちを総称していうもので,〈一人一学説〉がこの学派の特色である。古学派全盛のあとを受けて,18世紀の後半,当時高名の儒者10人のうち8,9人は折衷学といわれるほど流行し,儒学界の主潮流を占めた。その代表的な学説は,折衷学の提唱者である井上金峨(きんが)の《経義折衷》(1764),片山兼山の《山子垂統》(1775)などにうかがえる。共通点は,朱子学や陽明学などの既成の学説のいずれにも拘束されず,漢・唐の注疏学から宋・明の理学まで先行諸学説を取捨選択して〈穏当〉をはかるという学問方法にあった。思想史の展開の上からみれば,日本古学派,とくに徂徠学の文献実証の方法を継承しながらもその学説を批判し,〈聖人の道〉を経世済民の政治の学から道徳倫理の学へと把握しなおし,また聖人制作説を実質的に否定して,自然と道徳とを道徳的理念で結びつける朱子学的思考を復活し,儒学を道徳教化の学として再生させようとする傾向がみられる。18世紀の後半は,日本思想史上きわめて注目すべき時期で,心学,国学,洋学,経世思想などの儒学批判の諸思想が台頭し,豊富な思想展開をみせた。
折衷学の提唱は,こうした思想状況への儒学の側からの対応の意味をもつが,たとえば学問の道は自得にあるとする金峨の主張には,明らかにこの時代の自由な思潮の影響がある。〈寛政異学の禁〉(1790)において,徂徠学派とともに折衷学派が異学として禁圧の対象となり,江戸の亀田鵬斎(ほうさい)らがその犠牲となったのは,この学派の自由な学風のためであった。しかし一方からみれば,折衷学派の自由はあくまで儒学思想の枠内にあり,朱子学的な倫理説の復活もあって,異学の禁を推進した朱子学正学派とそれほど大きな距離があるわけではなかった。米沢藩や尾張藩で藩政改革の教学面を担い,藩校設立に大きな役割を果たした細井平洲のような折衷学者も少なくない。折衷学派は寛政異学の禁以後衰退したが,その文献考証の学問方法は考証学派に受け継がれた。また,その折衷主義や漢・唐の古注重視は,19世紀の儒学諸学派に強い影響を残した。幕末期の儒者には朱子学者でありながら古注を併用し,古学の学統に立ちながらも朱子学的な道徳主義をとるといった折衷の学風の者がかなり多い。折衷学派には,厳密な意味での師承はない。大別すれば,井上金峨とその門下の山本北山・吉田篁墩(こうとん)・亀田鵬斎・朝川善庵らの一派,片山兼山とその門下萩原大麓らの〈山子学〉の一派,中西淡淵とその門下の南宮大湫(たいしゆう)・細井平洲・伊藤冠峯らの一派,宇野明霞とその門下の片山北海・赤松滄洲らの一派がある。考証学者や古注学者をふくめて折衷考証学派とよぶこともあり,このときには太田錦城,皆川淇園(きえん),村瀬栲亭(こうてい),猪飼敬所らもこの学派に数えられる。
執筆者:衣笠 安喜
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期に輩出した朱子学、陽明学などの先行諸学説に偏らず、その長所をとって折衷穏当を図った儒学者たちを総称して折衷学派という。徂徠(そらい)学(蘐園(けんえん)学派)流行のあと、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)年間(1751~72)に片山兼山、井上金峨(きんが)らによって提唱された儒学の新学風で、一定の学説に基づく学派ではなく、「一人一学説」が特色である。しかし、いずれも既成の学派に束縛されず、中国漢唐の注疏(ちゅうそ)(古注)学から宋明(そうみん)の理学、さらには老荘学までの先行の諸説を取捨選択し、自家の見解を打ち出す学問方法のうえで共通性がある。また全体の傾向として、日本古学派とくに荻生徂徠(おぎゅうそらい)の学説を批判し、朱子学的な倫理重視の思想への回帰がみられる。折衷学派の自由な学風は、寛政(かんせい)異学の禁(1790)において禁圧の対象となったが、折衷的な学風はその後の儒学界に深く影響し、またその文献実証の方法は幕末の考証学に受け継がれた。代表的な折衷学者には、兼山、金峨のほか、山本北山、亀田鵬斎(ほうさい)、吉田篁墩(こうとん)、中西淡淵、細井平洲(へいしゅう)、宇野明霞(めいか)らがいる。
[衣笠安喜]
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新