出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
水戸(みと)藩の修史局。徳川光圀(みつくに)は世子時代の1657年(明暦3)初めて史局を江戸駒込(こまごめ)の水戸藩中屋敷(東京大学農学部敷地)に開いたが、十数年後、藩主時代の1672年(寛文12)それを小石川の本邸内(東京の後楽園はその庭園)に移して彰考館と名づけた。これによって『大日本史』の編纂(へんさん)は本格的となった。館名は、中国の学者杜預(どよ)の左伝の序「彰往考来」の語句に由来する。館には、光圀の招きに応じて全国から多くの学者が集まり、多いときは60名を超えたこともある。1683年(天和3)以来、1~数名の総裁が置かれた。なかには知名の学者も少なくない。1698年(元禄11)には同館の主体は水戸城内に移された。これは、光圀が引退し、水戸に近い西山荘(そう)(常陸太田(ひたちおおた)市)にあって修史の監修にあたる必要があったためである。以後、彰考館は江館(こうかん)(小石川邸内)と水館(すいかん)(水戸城内)の2館に分かれて編纂が進められた。光圀に続く第3代綱條(つなえだ)以後は館員も減少し、修史事業も衰えたが、第6代治保(はるもり)時代に復興し、9代斉昭(なりあき)は江館をやめて水館にまとめた。1871年(明治4)閉館同然となったが、徳川家は栗田寛(くりたひろし)らに委嘱して79年同館を再開、『大日本史』志表の脱稿に努めた。1906年(明治39)同書の完成によって修史局としての彰考館は閉鎖された。
[瀬谷義彦]
『栗田勤著『水藩修史事略』(1928・大岡山書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
常陸国水戸藩2代藩主徳川光圀(みつくに)によって始められた「大日本史」編纂局。1657年(明暦3)江戸駒込の別邸内に編纂局が開かれ,72年(寛文12)に小石川の本邸に移り,彰考館と称した。のち水戸に移されるなどしたが,光圀死去後は江戸と水戸の両方にわかれた。1830年(天保元)には江戸を縮小,水戸を中心とする。明治維新以後も「大日本史」編纂を続け,1906年(明治39)の完成後に閉館。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…神武天皇から南北朝時代の終末すなわち後小松天皇の治世(1382‐1412)までを,中国の正史の体裁である紀伝体により,本紀73巻,列伝170巻,志126巻,表28巻の4部397巻(別に目録5巻)で記述している。この事業に着手したのは2代藩主徳川光圀で,1657年(明暦3)に江戸駒込の藩邸に史局を設け,72年(寛文12)にこれを小石川の上屋敷に移して彰考館と命名し,ここに佐々宗淳,栗山潜鋒,三宅観瀾,安積(あさか)澹泊ら多くの学者を集めて,編纂に従事させるとともに,佐々らを京都,奈良など各地に派遣して,古文書・記録など史料の採訪に努めた(なお光圀隠居後は水戸でも編纂が進められ,のち1829年(文政12)には彰考館は水戸に一本化された)。光圀時代の編纂は本紀と列伝,すなわち伝記的な叙述の部門を中心とし,儒教道徳の見地から人物の評価を定めるところに,その主眼が置かれていた。…
…学問上では南朝正統の立場を強調した《大日本史》の編纂がある。この修史事業のために開いた彰考館には全国各地から学派にこだわらず学者を招き,多いときは館員が60名を超すこともあった。この学者の間に一つの学風が生まれ,これが天保期(1830‐44)に大成されて,水戸学となった。…
…藤田幽谷の門人。1820年(文政3)史館彰考館見習。一時郷里に帰ったが41年(天保12)再び彰考館に入り,《大日本史》編纂に従事して顕著な功績を残した。…
※「彰考館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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