竹下村(読み)たけしたむら

日本歴史地名大系 「竹下村」の解説

竹下村
たけしたむら

[現在地名]博多区博多駅南はかたえきみなみ五丁目・美野島みのしま四丁目・竹下一―五丁目・那珂なか一丁目・同六丁目

那珂郡に所属。那珂川下流右岸、東光寺とうこうじ村の南に位置する。南は五十川ごじつかわ村。戦国期の年月日未詳筥崎宮領坪付帳(田村文書/筥崎宮史料)にみえる「竹下」は当地にあたるか。当村の字に「ライトク」がある(続風土記附録)。前掲坪付帳に来徳らいとく村が載り、荒巻氏の抱分の田地があった。小早川時代の指出前之帳では竹下村の田七町九反余(分米六八石余)・畠一〇町九反余(分大豆五六石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高三一二石余、うち大豆一二七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三二〇石余、家数三一・社一、人数一四七(田圃志)

竹下村
たけしたむら

[現在地名]金谷町竹下

番生寺ばんしようじ村の北に位置し、同村との境を大代おおじろ川が流れる。志戸呂しとろ五ヵ村の一(→嶋村。竹ノ下とも記される(遠江国風土記伝)正保郷帳竹之下村とみえ、田方九六石余・畑方二二石余、幕府領。元禄郷帳では高二五三石余、幕府領(国立史料館本元禄郷帳)。宝永七年(一七一〇)相良藩領となるが(正徳二年本多忠晴領知目録)、正徳五年(一七一五)上知されたとみられ(享保二年本多忠通領知目録)、享保郷村高帳では掛川藩領。以後幕末まで同藩領であったと考えられる。旧高旧領取調帳では同藩領二五三石余、ほかに常安じようあん(現曹洞宗)除地六斗余。正徳六年幕府巡見使に差出された覚(竹下村誌稿)では家数五六・人数二三四、牛四・馬一五。

竹下村
たけしたむら

[現在地名]宇都宮市竹下町・清原工業団地きよはらこうぎようだんち

北は道場宿どうじようじゆく村、東は氷室ひむろ村。芳賀はが郡に属する。鬼怒川東岸の地域で起伏が目立つ。とくに鬼怒川沿いは崖が切立ち、飛山とびやま城跡一帯は台地をなしている。近世初期は宇都宮藩領。慶安郷帳に竹之下村とあり、田方二四八石余・畑方一五二石余。文政年間(一八一八―三〇)幕府領となり、以後幕末まで続く。天保年間(一八三〇―四四)の家数三六(改革組合村)用水は安永六年(一七七七)より一一ヵ村組合用水の板戸いたど用水を利用している。

竹下村
たけしたむら

[現在地名]野津町野津市のついち 竹下

板屋いたや村の南にあり、南を西流してきた野津川は当村西端で大きく曲流し、北へ流れる。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には板屋村など七村と一括された竹下村を含む一冊があり、村位は下。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳には竹ノ下村とあり本高四八石余・出来高六石余、田方二八石余・畑方二六石余。正保郷帳では板屋村に含まれる。文政六年(一八二三)には落谷組に属した(万用集)

竹下村
たけしたむら

[現在地名]大分市竹下

西ははま村、北は別府湾に面し、海岸線沿いに発達した幾条もの浜堤の上に集落がある。「肥後国誌」によれば「平野村・中村・浜田村横塚村」などの小村がある。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で関手永のうち。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高二一一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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