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竹本大和掾 たけもとやまとのじょう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

竹本大和掾
たけもとやまとのじょう

[生]元禄15(1702)
[没]明和3(1766)
江戸時代中期の義太夫節の太夫。内匠理太夫の息子。初舞台は豊竹座。延享2 (1745) 年受領して豊竹上野少掾。同4年京都で竹茂都大隅と改め,寛延1 (48) 年忠臣蔵事件で竹本座に迎えられ紋下 (総座頭) となり,竹本大隅掾,のち竹本大和掾

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

竹本大和掾 たけもと-やまとのじょう

1702-1766 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
元禄(げんろく)15年生まれ。竹本理太夫の子。義太夫節。豊竹三輪太夫を名のって豊竹座で初舞台,享保(きょうほう)19年竹本内匠太夫(たくみだゆう)と改名。竹本座,江戸の肥前座,京都の宇治座と転々としたが,竹本座にもどり,宝暦元年大和掾となった。語り口は「大和風」としてつたわる。明和3年11月8日死去。65歳。大坂出身。幼名は勝次郎。号は有隣軒。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

竹本大和掾

没年:明和3.11.8(1766.12.9)
生年:元禄15(1702)
江戸中期,義太夫節の太夫。竹本筑後掾の高弟内匠理太夫の子。豊竹越前少掾(初代若太夫)の門人。享保8(1723)年豊竹三輪太夫の名で豊竹座へ出勤,19年には竹本内匠太夫と名乗り竹本座へ,寛保1(1741)年には豊竹座に戻り豊竹内匠太夫となる。延享2(1745)年,豊竹座の中心的存在であった師の越前少掾の引退を機に豊竹上野少掾を受領し,三段目切語りとなるが,延享4年退座。京都へ行き竹茂都大隅と名乗るが,翌年のいわゆる「忠臣蔵騒動」により此太夫が竹本座から豊竹座に移籍した後任の紋下格として再び竹本座へ転じ,竹本大隅掾を名乗る。宝暦1(1751)年竹本大和掾藤原宗貫を受領。宝暦期(18世紀中ごろ)の竹本座の中心的存在であったが,芸風上の問題から,通常紋下の太夫の語る写実的で劇的な三段目切を語ることは少なく,主に音楽的で華麗な四段目や景事を語っていた。また,京都の竹本座にも竹本大和の名でしばしば出勤した。明和1(1764)年隠居し,有隣軒と号した。声量には乏しかったが声柄が美しく,間拍子に乗るリズミカルなノリ地を多用した耳に心地よい旋律は現在も「大和風」として伝承されている。

(桜井弘)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たけもとやまとのじょう【竹本大和掾】

1702‐66(元禄15‐明和3)
義太夫節の太夫。内匠理(たくみり)太夫の息で,本名近江屋三右衛門。伊藤三輪太夫,豊竹三輪太夫,竹本内匠太夫,豊竹内匠太夫から2世豊竹上野少掾を受領,さらに京都で竹茂都(たけもと)大隅の名で活躍したが,《仮名手本忠臣蔵》の騒動による太夫の東西入替りに際して竹本座へ戻る。1751年(宝暦1)より大和掾藤原宗貫。《重の井子別れ》《神崎揚屋》《袖萩祭文》《狐別れ》など大和風の名曲を後世に残した名人。号は有隣軒。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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