デジタル大辞泉
「笑福亭松鶴」の意味・読み・例文・類語
しょうふくてい‐しょかく〔セウフクテイ‐〕【笑福亭松鶴】
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笑福亭 松鶴(6代目)
ショウフクテイ ショカク
- 職業
- 落語家
- 肩書
- 上方落語協会名誉会長
- 本名
- 竹内 日出男
- 別名
- 前名=笑福亭 松之助(初代),笑福亭 光鶴,笑福亭 枝鶴(4代目)
- 生年月日
- 大正7年 8月17日
- 出生地
- 大阪府 大阪市西区京町堀
- 学歴
- 今宮中(旧制)中退
- 経歴
- 5代目笑福亭松鶴の二男で、母方の祖父は6代目林家正楽という落語一家に生まれる。小学校卒業後、心斎橋筋の茶舗・川口軒の丁稚となるが、20歳のとき兵役検査に失格となったのを機に店を辞める。その後は定職に就かなかったが、父が結成した楽語荘が出していた雑誌「上方はなし」の編集や、父の高座を手助けするうち自身も落語に深く関わるようになり、芸名無しで高座に上がることもあったという。昭和21年戦後の若手落語家不足のため初代笑福亭松之助を名乗って本格的に落語家となり、23年笑福亭光鶴、26年4代目笑福亭枝鶴と改名。32年林家染丸らと上方落語協会を結成し、副会長となる。37年6代目松鶴を襲名。40年「らくだ」で大阪府民劇場奨励賞を受賞。43年染丸の後を受けて上方落語協会の2代目会長に就任し、52年まで4期8年を務める間、島の内教会を会場に同協会初の定席である「島之内寄席」を開催するなど、戦後に勢いが衰えていた上方落語の再興に大きく貢献。54年には毎日国際サロンで独演会「松鶴極付き13夜」を開き、好評を博す。56年上方落語で初めて紫綬褒章を受章。豪放磊落ななかに繊細な味わいがある芸風は多くのファンを持ち、3代目桂米朝、3代目桂春団治、5代目桂文枝と並ぶ戦後上方落語における“四天王”の一人として上方落語界をリードした。平成10年上方演芸殿堂入り。弟子に長男の5代目笑福亭枝鶴の他、笑福亭仁鶴、笑福亭鶴光、笑福亭松喬、7代目笑福亭松鶴、笑福亭鶴瓶らがいる。得意の演目は「三十石」「天王寺詣り」「蔵丁稚」「猫の災難」などがあるが、特に自身が酒豪であったこともあいまって酔っ払いが登場する「らくだ」「市助酒」「一人酒盛」などの噺は絶品といわれた。
- 受賞
- 紫綬褒章〔昭和56年〕 大阪府民劇場奨励賞〔昭和40年〕「らくだ」,芸術祭賞優秀賞〔昭和45年〕「市助酒」,大阪市民表彰
- 没年月日
- 昭和61年 9月5日 (1986年)
- 家族
- 長男=笑福亭 枝鶴(5代目),父=笑福亭 松鶴(5代目),祖父=林家 正楽(6代目)
- 伝記
- 奇跡の寄席―天満天神繁昌亭師匠噺六世笑福亭松鶴はなしありがとう笑名人〈第1巻〉三木のり平・由利徹・笑福亭松鶴・東八郎・古今亭志ん朝惜別 お笑い人けったいな人びと―ホンマモンの芸と人笑いのゆくえ酒と博奕と喝采の日日なんだか・おかしな・人たち芸人女房伝落語長屋の知恵六代目松鶴 極めつけおもしろ人生 堤 成光 著浜 美雪 著戸田 学 編高田 文夫,「笑芸人」 編著相羽 秋夫 著棚橋 昭夫 著今村 荘三 著矢野 誠一 著文芸春秋 編島崎 恭子 著矢野 誠一 著笑福亭 松鶴 著(発行元 140B河出書房新社岩波書店白夜書房東方出版図書出版浪速社東方出版文芸春秋文芸春秋集英社青蛙房神戸新聞出版センター ’09’07’04’03’01’00’99’97’89’88’86’86発行)
笑福亭 松鶴(5代目)
ショウフクテイ ショカク
- 職業
- 落語家
- 本名
- 竹内 梅之助
- 別名
- 初名=笑福亭 光鶴,前名=笑福亭 枝鶴(2代目)
- 生年月日
- 明治17年 9月5日
- 出生地
- 大阪府 大阪市
- 経歴
- 明治36年4代目松鶴に入門。笑福亭光鶴を経て、大正7年2代目枝鶴、昭和10年5代目松鶴を襲名。オーソドックスな上方落語の血を継ぎ、豪放な風格と大ネタから珍しい噺まで持ちネタが多く、高座での第一人者であった。雑誌「上方はなし」(全49冊)の編纂で知られ、戦後の苦難の時代も実子の6代目松鶴、桂米朝ら若手を育て、上方落語界の盟主として奮闘した。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。
- 没年月日
- 昭和25年 7月22日 (1950年)
- 家族
- 長男=笑福亭 松鶴(6代目)
- 伝記
- 惜別 お笑い人落語名人伝笑福亭松鶴 相羽 秋夫 著関山 和夫 著三田 純市 著(発行元 東方出版白水社駸々堂出版 ’01’92’87発行)
笑福亭 松鶴(4代目)
ショウフクテイ ショカク
- 職業
- 落語家
- 本名
- 森村 米吉
- 別名
- 前名=笑福亭 松竹,笑福亭 万斎,桂 枝鶴
- 生年月日
- 明治2年
- 出生地
- 大阪
- 経歴
- 幼くして父に死別。丁稚奉公や歌舞伎俳優の男衆を経て、花簪の職人となる。その傍ら明治20年頃3代目笑福亭松鶴に入門、松竹の名で夜の高座に出演。その後、薬の行商人になるなど一時落語界を離れたが、万斎名に改め復帰。32年2代目桂文枝の預かり弟子となり桂枝鶴と改名。2代目笑福亭竹山人と改名した師匠の都合で移籍に問題が生じ、一時神戸で素人連に身を投じるが、三友派に復帰し40年11月4代目笑福亭松鶴を襲名した。45年三友派を出て寿々女会を結成。のち大正4年に解散。6年再び三友派に復帰。14年病気を理由に高座を引く。昭和10年3月弟子に松鶴を譲って、松翁となり落語荘の顧問格におさまった。得意の演目に「天王寺まいり」「新町ぞめき」「野崎詣」などがあり、素噺一筋でゆったりと運ぶ口調には他の追従を許さないうま味があった。
- 没年月日
- 昭和17年 8月20日 (1942年)
笑福亭 松鶴(3代目)
ショウフクテイ ショカク
- 職業
- 落語家
- 本名
- 武田 亀太郎
- 別名
- 前名=立川 光柳,桂 慶枝,笑福亭 松喬,笑福亭 木鶴(初代)
- 生年月日
- 弘化2年
- 経歴
- 初め素人落語の亀丸と名乗っていたが、明治3年3代目立川三光に弟子入りし、光柳を名乗る。ついで、初代桂慶治の門に転じ慶枝となるが、2代目笑福亭松鶴に見こまれ門下となり松喬と名乗る。11年3代目松鶴を襲名。一時、木鶴と改めたが13年再び松鶴に復名する。19年2代目桂文枝に招かれて桂派の重鎮として活躍するが、文枝と衝突して24年桂派を去る。26年浪花三友派を創設。29年同派を去り講釈師となるが、37年12月2代目笑福亭竹山人と改名して復帰。39年5月再び三友派を引き、その後講釈師に復した。得意の演目に「一休和尚一代記」「山上参り」「三十石夜船」などがある。
- 没年月日
- 明治42年 3月30日 (1909年)
笑福亭 松鶴(7代目)
ショウフクテイ ショカク
- 職業
- 落語家
- 本名
- 倉本 雅生
- 別名
- 旧芸名=笑福亭 松葉(ショウフクテイ マツバ)
- 生年月日
- 昭和27年 2月19日
- 出生地
- 大阪府 大阪市西区
- 経歴
- 昭和45年キリンビールに入社するが3ヶ月で退社し、6代目笑福亭松鶴に七番弟子として入門。平成4年より独演会を開き、5年からはテレビのワイドショーの司会も担当。6年上方落語の大名跡である松鶴襲名が決まるが病に倒れ、8年9月襲名披露興行の最終日当日に44歳で死去した。同年11月一門から7代目松鶴を追贈された。
- 所属団体
- 上方落語協会
- 没年月日
- 平成8年 9月22日 (1996年)
笑福亭 松鶴(2代目)
ショウフクテイ ショカク
- 職業
- 落語家
- 本名
- 松本 豊七
- 別名
- 前名=笑福亭 鶴松,笑福亭 吾竹(4代目)
- 生年月日
- ?
- 経歴
- もとは紺屋の職人で、仕事の合間には桃などの果物を独特の売り声で売り歩き、落語家になった後も通称桃屋と呼ばれた。初代笑福亭松鶴に入門、鶴松から4代目吾竹を経て、師の没後まもなく2代目松鶴を襲名。後年は円笑と改名して講釈師として活躍。また、松橋を名乗った時期もあったと云われる。大津絵節の替歌にも秀で、師匠の「三十石」に初代桂文枝の「三十石」を加味して一時代をつくったとも云われる。講釈師としての主な演目は「加賀騒動」「業平文治」など。
- 没年月日
- 明治24年 8月8日 (1891年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
笑福亭松鶴
しょうふくていしょかく
大阪の落語家。
(?―1865)初め松喬といったが、のち松鶴と改名。
[関山和夫]
生没年不明。初代門人。鶴松、4代吾竹(ごちく)から2代目を襲名したが、のち円笑と改名して講釈師となる。
[関山和夫]
(1845―1909)本名武田亀太郎。2代立川三光門、桂(かつら)慶治門、2代円笑門と移り、松橋、木鶴を経て3代松鶴となったが、のち竹山人と名のって講釈師となる。
[関山和夫]
(1869―1942)本名森村米吉。3代門人。三代松(みよまつ)、松竹、万歳、桂枝鶴(しかく)を経て1907年(明治40)4代目襲名。
[関山和夫]
(1884―1950)本名竹内梅之助。4代門人。光鶴、枝鶴から1935年(昭和10)5代目襲名。自宅に「楽語荘(らくごそう)」をつくり、雑誌『上方(かみがた)はなし』を発行。上方落語継承に貢献した。
[関山和夫]
(1918―86)本名竹内日出男。5代の長男。松之助、光鶴、枝鶴を経て1962年(昭和37)6代目襲名。『高津(こうづ)の富』『三十石(さんじっこく)』『らくだ』などが得意。
なお7代目を襲名することになっていた笑福亭松葉(本名倉本雅生(まさたか))(1952―96)は、襲名披露を予定していた当日に死亡した。
[関山和夫]
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笑福亭松鶴 (しょうふくていしょかく)
落語家の芸名。(1)初代(?-1865(慶応1)) 初代桂文枝,4代桂文治とともに林家派に対抗して上方落語界を盛りあげる。(2)2代(生没年不詳) 初代門下。4代吾竹(ごちく)を経て襲名。のち講談師円笑(えんしよう)となる。(3)3代(1845-1909・弘化2-明治42) 本名武田亀太郎。2代門下。のち講談師笑福亭竹山人となる。(4)4代(1869-1942・明治2-昭和17) 本名森村米吉。3代門下。のち2代文枝の預け弟子となり,枝鶴を経て襲名。(5)5代(1884-1950・明治17-昭和25) 本名竹内梅之助。5代襲名後,漫才に圧倒される上方落語を保持すべく,自宅を〈楽語荘(らくごそう)〉と名づけて落語研究会を結成,また〈上方はなしをきく会〉を主宰し,月刊落語雑誌《上方はなし》を第49集まで発行するなど,第2次世界大戦中および戦後の上方落語界に貴重な足跡を残した。(6)6代(1918-86・大正7-昭和61) 本名竹内日出男。5代の長男。豪放な芸風で,もっとも上方的な落語の味わいをもつ。《らくだ》《三十石》を得意とした。
執筆者:興津 要
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
笑福亭 松鶴(6代目)
ショウフクテイ ショカク
昭和期の落語家 上方落語協会名誉会長。
- 生年
- 大正7(1918)年8月17日
- 没年
- 昭和61(1986)年9月5日
- 出生地
- 大阪府大阪市西区京町堀
- 本名
- 竹内 日出男
- 別名
- 前名=笑福亭 松之助(1代目),笑福亭 光鶴,笑福亭 枝鶴(4代目)
- 学歴〔年〕
- 今宮中(旧制)中退
- 主な受賞名〔年〕
- 芸術祭優秀賞〔昭和45年〕「市助酒」,紫綬褒章〔昭和56年〕,大阪市民表彰
- 経歴
- 米朝、春団治、小文枝と並ぶ上方落語“四天王”の一人。昭和21年笑福亭松之助で初高座に上がり、23年光鶴、26年4代目枝鶴と改名。37年6代目松鶴を襲名。豪放のなかに繊細な独特の話風は多くのファンを持つ。得意ネタは「らくだ」「三十石」「市助酒」など。43年から4期8年上方落語協会会長を務めた。54年には、独演会「松鶴極付き13夜」の偉業を達成。56年秋、上方落語で初めて紫綬褒章を受章。レコードに「6代目松鶴・上方はなし」(全10集)がある。平成10年上方演芸殿堂入り。
笑福亭 松鶴(5代目)
ショウフクテイ ショカク
明治〜昭和期の落語家
- 生年
- 明治17(1884)年9月5日
- 没年
- 昭和25(1950)年7月22日
- 出生地
- 大阪府大阪市
- 本名
- 竹内 梅之助
- 別名
- 初名=笑福亭 光鶴,前名=笑福亭 枝鶴(2代目)
- 経歴
- 明治36年4代目松鶴に入門。笑福亭光鶴を経て、大正7年2代目枝鶴、昭和10年5代目松鶴を襲名。オーソドックスな上方落語の血を継ぎ、豪放な風格と大ネタから珍しい噺まで持ちネタが多く、高座での第一人者であった。雑誌「上方はなし」(全49冊)の編纂で知られ、戦後の苦難の時代も実子の6代目松鶴、桂米朝ら若手を育て、上方落語界の盟主として奮闘した。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
笑福亭松鶴(6世)
しょうふくていしょかく[ろくせい]
[生]1918.8.17. 大阪
[没]1986.9.5. 大阪
落語家。本名竹内日出男。5世笑福亭松鶴の二男。母方の祖父は 6世林家正楽。丁稚奉公に出るが徴兵検査を機に辞め 26歳まで放蕩をして暮らす。1944年頃父のマネージャーとして慰問団の番組づくりや,ときには前座で高座に上がったりもした。1947年父に入門し,笑福亭松之助として正式に初高座。1948年 3世笑福亭光鶴,1953年 4世笑福亭枝鶴を経て,1962年 6世笑福亭松鶴を襲名。戦後滅亡の危機にあった上方落語復興に尽力,3世桂米朝,3世桂春団治,5世桂文枝とともに戦後上方落語四天王と呼ばれる。1968~77年上方落語協会会長を務め,その間,1972年に島之内教会で月 5日の落語の寄席(島之内寄席)を開催した。得意ネタは『らくだ』『一人酒盛』『高津の富』など。角座の漫才や音楽ショーの間に『相撲風景』などで爆笑をとった。テレビドラマ『どてらい男』(関西テレビ放送系)の将軍役で茶の間にも知られた。若い頃は酒や女性にまつわる逸話も多く「無茶者」と呼ばれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
笑福亭松鶴(5代) しょうふくてい-しょかく
1884-1950 明治-昭和時代の落語家。
明治17年9月5日生まれ。初代笑福亭枝鶴(のち4代松鶴)に入門,光鶴を名のる。大正7年2代枝鶴,昭和10年5代松鶴を襲名。漫才人気に対抗するため「上方はなし」を発行,また楽語荘を結成して上方落語の継承と発展につとめた。昭和25年7月22日死去。65歳。大阪出身。本名は竹内梅之助。
【格言など】煩悩を振り分けにして西の旅(辞世)
笑福亭松鶴(6代) しょうふくてい-しょかく
1918-1986 昭和時代後期の落語家。
大正7年8月17日生まれ。5代笑福亭松鶴の次男。松之助,3代光鶴,4代枝鶴をへて昭和37年6代松鶴を襲名。上方落語界の復興と発展に貢献した。弟子に笑福亭仁鶴(にかく)らがいる。43年上方落語協会会長となる。昭和61年9月5日死去。68歳。大阪出身。本名は竹内日出男。
笑福亭松鶴(初代) しょうふくてい-しょかく
?-1866 江戸時代後期の落語家。
2代笑福亭吾竹(ごちく)の門人。「大津絵」の替え歌で名をあげ,音曲(おんぎょく)入りの噺(はなし)を得意とした。大坂で楊弓屋をいとなみ,頭の形から火消し壺とよばれた。慶応2年1月死去。前名は松喬。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
笑福亭松鶴【しょうふくていしょかく】
大阪の落語家。5代〔1884-1950〕は本名竹内梅之助。大阪府生れ。1935年襲名。漫才に押され気味の上方落語の維持に努め,自宅を〈楽語荘(らくごそう)〉と名づけて落語研究会を結成し,雑誌《上方はなし》を刊行した。6代〔1918-1986〕は5代の長男。本名竹内日出男。1946年落語界に入り,1962年襲名。豪放な芸風で,《天王寺詣り》《三十石》《らくだ》などで上方噺(ばなし)の味わいを伝えた。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
笑福亭 松鶴(5代目) (しょうふくてい しょかく)
生年月日:1884年9月5日
明治時代-昭和時代の落語家
1950年没
笑福亭 松鶴(6代目) (しょうふくてい しょうかく)
生年月日:1918年8月17日
昭和時代の落語家
1986年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報