桂春団治(読み)カツラハルダンジ

デジタル大辞泉 「桂春団治」の意味・読み・例文・類語

かつら‐はるだんじ〔‐はるダンヂ〕【桂春団治】

上方落語家
(初世)[1878~1934]大阪の生まれ。本名、皮田藤吉。のち岩井姓。独特の芸風と、奇行にみちた実生活で人気があった。
(3世)[1930~2016]大阪の生まれ。本名、河合一。着実な芸風で知られ、上方落語復興尽力。当たり芸に「いかけ屋」「親子茶屋」など。
長谷川幸延作、渋谷天外筆名館直志脚色による松竹新喜劇戯曲。渋谷天外自身が主演し、昭和26年(1951)に初演酒屋丁稚でっち役を演じた藤山寛美が一躍人気役者となるきっかけになった作品。

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共同通信ニュース用語解説 「桂春団治」の解説

桂春団治

桂春団治かつら・はるだんじ 初代は豪放な話芸で絶大な人気を誇り、型破りな生きざまでも知られ、後世に名を残した。二代目は初代譲りの笑いの多いはなしを受け継ぎ、力量が高く評価された本格派。三代目は日本舞踊の名手で、端正な高座姿と品格のある粋な芸風で観客を魅了した。初代の生涯は映画や芝居にもなり、みやこはるみさんと岡千秋おか・ちあきさんのヒット曲「浪花恋しぐれ」でも歌われた。

更新日:

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精選版 日本国語大辞典 「桂春団治」の意味・読み・例文・類語

かつら‐はるだんじ【桂春団治】

  1. 初代。大阪の落語家。本名、皮田藤吉。後姓、岩井。桂文我、のち七代桂文治に入門。旧来の上方落語の風を破り、奇抜なナンセンスを取り入れて新しい芸風を樹立。明治一一~昭和九年(一八七八‐一九三四

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「桂春団治」の解説

桂 春団治(初代)
カツラ ハルダンジ


職業
落語家

本名
岩井 藤吉

旧名・旧姓
皮田

生年月日
明治11年 8月4日

出生地
大阪府 大阪市南区高津二ツ井戸

経歴
兄にならって明治28年大阪落語の桂文我に入門、桂我都と名乗り、寄席で徐々に人気を高めた。35年2代目桂文団治の門に入り、36年初代春団治(厳密には2代)を襲名大正3年真打ちとなり、伝統の上方落語に奇想天外なナンセンスの笑いを持ち込んだ。女性遍歴や奇行でも知られ、5年には医療器具問屋の未亡人と同棲し、妻子と別れたが、スキャンダルを逆に利用して売り出した。10年吉本興業と専属契約し、吹き込んだレコードは全国的にヒット、寄席と比較にならぬ人気を得た。大正末年“食べられるレコード”を製造するが、大損をし、晩年は経済的に行き詰まった。没後も、小説、芝居、演歌のモデルなどとして、名声を得る。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。

没年月日
昭和9年 10月6日 (1934年)

伝記
忘れえぬ落語家たち富士正晴集女興行師 吉本せい―浪花演芸史譚笑いをつくる―上方芸能笑いの放送史桂春団治なにわ難波のかやくめし―上方芸能の宝庫「日本橋三丁目」ものがたりこの人たちの結婚―明治大正名流婚落語名人伝女興行師 吉本せい―浪花演芸史譚落語は物語を捨てられるか落語家―いま、むかし 興津 要 著富士 正晴 著矢野 誠一 著沢田 隆治 著富士 正晴 著成瀬 国晴 著林 えり子 著関山 和夫 著矢野 誠一 著矢野 誠一 著興津 要 著(発行元 河出書房新社影書房筑摩書房日本放送出版協会講談社東方出版講談社白水社中央公論社新しい芸能研究室旺文社 ’08’06’05’02’01’98’97’92’92’91’87発行)


桂 春団治(2代目)
カツラ ハルダンジ


職業
落語家

本名
河合 浅次郎

別名
前名=桂 春蝶,桂 福団治

生年月日
明治27年 8月5日

出生地
大阪府 久宝町

経歴
初代春団治の弟子。喜劇俳優となったが27歳の時先代に認められ弟子入りした。春蝶、福団治と名乗り、昭和9年2代目春団治を襲名。先代の譲りもの「へっつい泥棒」「ふたなり」などが得意だったが、お座敷の色ばなしに真価を発揮した。上方落語界の重鎮として先代を超えて新生面開拓に努めたが、28年心臓病に倒れた。平成11年上方演芸の殿堂入り。

没年月日
昭和28年 2月25日 (1953年)

家族
長男=桂 春団治(3代目),妻=河本 寿栄

伝記
二代目さん―二代目桂春団治の芸と人上方落語のはなし 河本 寿栄 著,小佐田 定雄 編露の 五郎 著(発行元 青蛙房朝日新聞社 ’02’92発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「桂春団治」の意味・わかりやすい解説

桂春団治 (かつらはるだんじ)

上方の落語家。(1)初代(1878-1934・明治11-昭和9) 本名皮田(かわだ)藤吉。のち岩井姓。はじめ桂文我に入門し,のちに7代目桂文治に師事して春団治となる。上方落語通は彼の芸を邪道視したが,伝統の上方落語のなかに奇想天外のナンセンスを持ちこんだ独特の芸風は,洒落で奔放で奇行に満ちたその日常生活とあいまって,彼を一代の人気者とした。得意は《ふたなり》《素人(しろうと)うなぎ》《へっつい盗人》《いかけ屋》など。実際は彼の兄弟子(のちに大阪の志々喰屋橋(ししくいやばし)で圭春亭(けいしゆんてい)という寄席を経営)が初代だが,彼の存在が大きかったために,俗に彼を初代という。その数奇な生涯は,小説化,劇化,映画化された。(2)2代(1894-1953・明治27-昭和28) 初代門下。本名河合浅次郎。先代ゆずりの演目を得意とした。(3)3代(1930(昭和5)- )本名河合一(はじめ)。2代の実子。着実な芸風で知られ,上方落語協会会長を歴任し,上方落語界に重きをなしている。《いかけ屋》《代書屋》などが得意。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「桂春団治」の解説

桂 春団治(1代目)
カツラ ハルダンジ

明治〜昭和期の落語家



生年
明治11(1878)年8月4日

没年
昭和9(1934)年10月6日

出生地
大阪府大阪市南区高津二ツ井戸

本名
岩井 藤吉

旧姓(旧名)
皮田

経歴
兄にならって明治28年大阪落語の桂文我に入門、桂我都と名乗り、寄席で徐々に人気を高めた。35年2代目桂文団治の門に入り、36年初代春団治(厳密には2代)。大正3年真打ちとなり、伝統の上方落語に奇想天外なナンセンスの笑いを持ち込んだ。女性遍歴や奇行でも知られ、5年には医療器具問屋の未亡人と同棲し、妻子と別れたが、スキャンダルを逆に利用して売り出した。10年吉本興業と専属契約し、吹き込んだレコードは全国的にヒット、寄席と比較にならぬ人気を得た。大正末年“食べられるレコード”を製造するが、大損をし、晩年は経済的に行き詰まった。没後も、小説、芝居、演歌のモデルなどとして、名声を得る。平成8年上方演芸に貢献した人を顕彰する“上方演芸の殿堂”に入る。


桂 春団治(2代目)
カツラ ハルダンジ

大正・昭和期の落語家



生年
明治27(1894)年8月5日

没年
昭和28(1953)年2月25日

出生地
大阪府久宝町

本名
河合 浅次郎

別名
前名=桂 春蝶,桂 福団治

経歴
初代春団治の弟子。喜劇俳優となったが27歳の時先代に認められ弟子入りした。春蝶、福団治と名乗り、昭和9年2代目春団治を襲名。先代の譲りもの「へっつい泥棒」「ふたなり」などが得意だったが、お座敷の色ばなしに真価を発揮した。上方落語界の重鎮として先代を超えて新生面開拓に努めたが、28年心臓病に倒れた。平成11年上方演芸の殿堂入り。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「桂春団治」の意味・わかりやすい解説

桂春団治
かつらはるだんじ

上方(かみがた)の落語家。

初代(1878―1934)本名皮田(かわだ)藤吉。のちに岩井姓となる。初め桂文我(ぶんが)に入門して我都(がとう)。のち2代目桂文団治(ぶんだんじ)の門下となり、2代目春団治となる。初代は圭春亭(けいしゅんてい)主人となった彼の兄弟子だったが、初代がセミプロで早世したため、この2代目を演芸界で初代とする。彼は初代とよばれるにふさわしく、大正末から昭和初期にかけて奇抜な笑いを主とする独特の話芸で人気を集めた。『素人鰻(しろうとうなぎ)』『黄金の大黒』『いかけ屋』『ちしゃ医者』などが得意であった。その奇行と波瀾(はらん)に富んだ生涯は、のちに劇化、映画化されたが、実際の春団治像はややゆがめられた。

2代(1896―1953)本名河合浅次郎。佐賀家円助門から初代春団治門に移り春蝶(しゅんちょう)。福団治を経て1934年(昭和9)2代目春団治となる。初代の芸風を継ぐ。

3代(1930―2016)本名河合一(はじめ)。2代目の実子。小春から福団治を経て1959年(昭和34)3代目を襲名。上方落語の代表者の一人としてその発展に貢献した。

[関山和夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桂春団治」の意味・わかりやすい解説

桂春団治(3世)
かつらはるだんじ[さんせい]

[生]1930.3.25. 大阪
[没]2016.1.9. 大阪,大阪
落語家。本名河合一。2世桂春団治の実子。2世桂福団治を経て,1959年に 3世桂春団治を襲名。上方落語復興に尽力し,3世桂米朝,6世笑福亭松鶴,5世桂文枝とともに戦後上方落語四天王と呼ばれた。1977~84年,上方落語協会会長を務めた(→落語家協会)。1998年紫綬褒章,2004年旭日小綬章を受章。華やかで洗練された芸風で知られた。(→落語

桂春団治(2世)
かつらはるだんじ[にせい]

[生]1894.8.5. 大阪
[没]1953.2.25.
落語家。本名河合浅次郎。 1934年,桂福団治から2世襲名。谷崎潤一郎をして最も大阪色の濃い落語家と言わしめた。

桂春団治(1世)
かつらはるだんじ[いっせい]

[生]1878.8.4. 大阪
[没]1934.10.6.
落語家。本名皮田 (のち岩井) 藤吉。大正から昭和にかけて,大阪演芸界を席捲したスター落語家。数々のスキャンダルを含めた,その奇行ぶりが伝説化されている。

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知恵蔵mini 「桂春団治」の解説

桂春団治(3代目)

落語家。本名、河合一(かわいはじめ)。1930年3月25日、大阪府生まれ。47年に父、2代目春団治に入門。小春、福団治を名乗った後、59年に上方落語の大名跡である春団治の3代目を襲名。「代書屋」「祝(いわ)いのし」「野崎詣(まい)り」「皿屋敷」などを持ちネタとし、洗練された語り口で観客を魅了した。6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、5代目桂文枝と共に「四天王」と称され、衰退していた上方落語の復興に尽力。77年から84年までは上方落語協会会長も務め、98年に紫綬褒章、2004年に旭日小綬章を受章した。13年以降は足のケガなどをきっかけに高座から遠ざかり、16年1月9日、心不全のため死去した。享年85。

(2016-1-15)

出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桂春団治」の解説

桂春団治(初代) かつら-はるだんじ

1878-1934 明治-昭和時代前期の落語家。
明治11年8月4日生まれ。2代桂文団治の弟子となり,明治36年2代桂春団治を襲名。初代が早世したため2代目が演芸界では初代とされる。「へっつい泥棒」「素人鰻(しろうとうなぎ)」などを得意とし,独特の話芸で上方落語を代表する噺(はなし)家として人気があった。昭和9年10月6日死去。57歳。大阪出身。本名は皮田(のち岩井)藤吉。

桂春団治(3代) かつら-はるだんじ

1930- 昭和後期-平成時代の落語家。
昭和5年3月25日生まれ。2代桂春団治の長男。父に入門し昭和22年小春を名のる。25年2代福団治をつぎ,34年3代春団治を襲名。「野崎詣り」「親子茶屋」「皿屋敷」などを得意とする。上方落語協会会長もつとめた。大阪出身。浪華商業卒。本名は河合一。

桂春団治(2代) かつら-はるだんじ

1894-1953 大正-昭和時代の落語家。
明治27年8月5日生まれ。初代桂春団治の門にはいって春蝶を名のり,のち福団治と改名。昭和9年2代春団治を襲名,初代ゆずりの作品をうけつぎ「豆屋」などを得意とした。昭和28年2月25日死去。58歳。大阪出身。本名は河合浅次郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「桂春団治」の意味・わかりやすい解説

桂春団治【かつらはるだんじ】

上方(かみがた)の落語家。ふつう初代と呼ばれるのは本名皮田藤吉〔1878-1934〕。ナンセンスをとり入れた奔放な語り口と奇行によって人気があり,その生涯は小説や映画になった。得意は《素人うなぎ》《へっつい盗人》《いかけ屋》など。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

367日誕生日大事典 「桂春団治」の解説

桂 春団治(初代) (かつら はるだんじ)

生年月日:1878年8月4日
明治時代-昭和時代の上方落語家
1934年没

桂 春団治(2代目) (かつら はるだんじ)

生年月日:1894年8月5日
大正時代;昭和時代の落語家
1953年没

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