筏村(読み)いかだむら

日本歴史地名大系 「筏村」の解説

筏村
いかだむら

[現在地名]山内村筏

あさひ(現横手川)下流にあり、西に平野沢ひらのさわ村、北に小松川こまつかわ村、東に南郷なんごう村が隣接する。

梅津政景日記」元和五年(一六一九)四月一八日、および翌六年九月二三日条に「いかた青」「筏青」と筏産の青毛の馬がみえ、馬産地であった。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には一八三石とあり、宝永二年(一七〇五)の平鹿郡村々御黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高一八五石六斗九升三合とあり、本田の免は六ツ、新田の免は六ツと五ツとある。


筏村
いかだむら

[現在地名]大屋町筏

蔵垣くらがき村の西、大屋川の流域に位置し、当地から南に佐治見さじみ谷、北にうめくぼの谷が延びている。集落は大屋川沿いの平地に発達。ほかに佐治見・梅が窪の谷筋に小集落が点在していたが、現在では大屋川沿いの平地に移転、廃村となった。かつて当地には山路さんろ寺の支坊谷増こくぞう(谷蔵)坊があったが(寛政三年古義真言宗本末牒など)、弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「いかたこく蔵坊」とみえる。


筏村
いかだむら

[現在地名]庄川町筏

古上野ふるうえの村の南にある。正保郷帳に筏新村とみえ高二六石余、田方一町六反余・畑方一反。明暦二年(一六五六)の村御印留では筏村とある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一二二石、ほかに万治元年(一六五八)の新田高一石があり、免はともに三ツ八歩。小物成は鮎川役一匁(出来)。その後元禄一三年(一七〇〇)に畑直高・新開高計五斗余が加わっている(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数四、肝煎ヶ村少三郎の兼帯(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)


筏村
いかだむら

[現在地名]国見町神代こうじろ 東里ひがしさと

東神代村枝郷。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)に筏村とみえ、天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では筏村として高三五七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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