日本の城がわかる事典 「米沢城」の解説 よねざわじょう【米沢城】 山形県米沢市にあった中世から近世にかけての平城(ひらじろ)。戦国時代には伊達氏の本拠、江戸時代には米沢藩の政庁と同藩主上杉氏の居城となった城。鎌倉時代中期に幕府政所の別当大江広元の次男・時広が出羽国置賜(おきたま)郡長井郷の地頭となり、居館を築いたのが米沢城の起源。時広は領地の地名から長井姓を名乗るようになり、以後150年にわたって長井氏の居館となった。室町時代の初めに伊達宗遠が当地を侵略して長井氏を追い、以降、安土桃山時代まで伊達氏の領地となった。伊達氏は桑折西山城(福島県桑折町)を本拠としていたが、1548年(天文17)の天文の乱後、当主の伊達晴宗は本城を米沢城に移した。1591年(天正19)、豊臣秀吉の命により伊達政宗(まさむね)が岩出山城(宮城県大崎市)に移ると、蒲生郷安が米沢城主となり、上杉景勝が越後から会津に入封すると、米沢城は重臣の直江兼続(かねつぐ)が城主となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い、奥州出羽合戦ののち、上杉氏は出羽国の置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡30万石に減封され、これ以降明治維新まで米沢城は、米沢藩の政庁、上杉氏の居城となった。1608年(慶長13)、上杉景勝は直江兼続に命じて城の大改修に着手し、石垣を用いず土塁を多用した輪郭式の縄張りを持つ城となった。天守は建てず、その代わりに2基の三階櫓(さんがいやぐら)を持つ。また本丸には春日山城(新潟県上越市)に埋葬されていた上杉謙信の遺骸を改葬して御堂が建設された。1871年(明治4)の廃藩置県後、米沢城には米沢県庁が置かれ、1873年(明治6)には城内の建物はすべて破却され、翌1874年(明治7)には城跡は松が岬公園として開放された。内堀と土塁、二の丸の堀の一部などが現存する。本丸跡にある上杉神社は1872年(明治5)、最後の藩主となった上杉斉憲が藩祖上杉謙信と上杉鷹山(ようざん)(第9代藩主治憲、同藩中興の祖)を合祀して建立したもの。ただし、本丸跡の現在地に移ったのは1876年(明治9)である。また旧上杉伯爵邸(鶴鳴館)が上杉記念館となっており、1997年(平成9)に登録有形文化財となった。なお、かつて本丸にあった上杉謙信を祀る御堂は、市内の長命寺の本堂として移築されて現存するほか、東大手門の礎石が市内の川井に石碑となって残っている。JR奥羽本線・山形新幹線米沢駅からバス約10分で上杉神社前下車。◇舞鶴城、松ヶ岬城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報