米津村(読み)よねづむら

日本歴史地名大系 「米津村」の解説

米津村
よねづむら

[現在地名]西尾市米津町

市の北端に位置し、矢作川右岸に開けた集落よりなる。北は中根なかね村、東は藤井ふじい(現安城市)に接し、南は矢作川をもって伊藤いとう村と境し、西は根崎ねさき(現安城市)に接する。北を朝鮮ちようせん川が流れる。「雨堀あまぼり」とよばれる地から古代瓦を出土する。奈良朝前後のもので古代瓦窯跡と考えられている。

中世、「えのづ」とか「えのきづ」といわれた。「入江の津」「米の津」と解される。中世の初めより集落ができ、碧海へきかい志貴しき庄に属した。延徳三年(一四九一)本願寺実如から下付された方便法身尊影の裏書に「米津郷」がみえる。


米津村
よねづむら

[現在地名]浜松市米津町・新橋町につぱしちよう

法枝のりえだ村の南に位置し、遠州灘に面する。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳に新米津しんよねづとみえ、高一〇四石余、家数四二、浜松藩領。元禄郷帳では米津村として高二一二石余。国立史料館本元禄郷帳・旧高旧領取調帳でも浜松藩領。「遠江国風土記伝」が漁猟場とするように鰯漁が盛んであった。天明八年(一七八八)当時、当村の市太夫は酒造株(高四〇石)をもっていたが、休業中であった(「諸向御届」井上家文書)。天保一五年(一八四四)からの浜松藩主水野忠邦の軍事改革では、当村に遠見番所を設ける提言がなされている。


米津村
よなづむら

[現在地名]大洲市米津

ひじ川河口より八キロさかのぼった北東岸の低地から丘陵地にかけての村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「米津村 日損所、茅山有、川有」とあり、地名のとおり河港であった。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」には、土産に「米・大豆・菜種子多し・藍」があり、土地は「よろしき所多し、百姓豊饒にして貧乏者少し、枝村は悪し」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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