粟原寺跡(読み)おうばらでらあと

日本歴史地名大系 「粟原寺跡」の解説

粟原寺跡
おうばらでらあと

[現在地名]桜井市大字粟原

粟原川の谷の南側、粟原集落の中に位置したが、現存しない。「大和志」に「粟原廃寺」として「粟原村、其宝塔露盤今在多武峯妙楽寺、勒曰粟原寺壱院四至、東限竹原谷東峯、南限大峯樫村谷、西峯、北限忍坂川」とみえ、寛政四年(一七九二)の柴野栗山著「寺社宝物展閲目録」多武峯寺条に「粟原寺塔露盤 和銅八年銘有之」とある。この露盤の伏鉢談山たんざん神社に所蔵されており、その陰刻銘文に

<資料は省略されています>

とある。これによれば天武天皇の時、仲臣大嶋が草壁皇太子のために伽藍を造営することを発願額田というものが持統天皇八年(六九四)起工、まず金堂をつくり、丈六の釈迦像を安置、大嶋の没後二二年にあたる和銅八年(七一五)に至って三重塔も整ったことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「粟原寺跡」の解説

おうばらでらあと【粟原寺跡】


奈良県桜井市粟原にある寺院跡。粟原集落の南外れ、天満神社とその隣接地の標高約260mのところに塔跡と金堂跡が残る。塔跡は心礎・四天柱、側柱の礎石が残り、規模は6m四方。心礎は約6mの円形をした花崗岩で、中央に直径約85cm、深さ約4cmの円柱孔があり、外方に湿気を抜く小溝をうがっている。西側には金堂跡と思われる箇所があり、礎石が数個残り、一画に鎌倉時代後期の十三重石塔がある。同市の談山(たんざん)神社には国宝に指定されている三重塔伏鉢があり、そこには粟原寺の範囲や694年(持統天皇8)に中臣朝臣大嶋が草壁皇子のために造営したと、その由来も刻まれている。採集された瓦には複弁八葉蓮華文軒丸瓦(のきまるがわら)、偏行唐草文軒平瓦があるなど、この寺跡は金堂跡を残す奈良時代の寺院として学術的価値が高いことから、1927年(昭和2)に国の史跡に指定された。JR桜井線ほか桜井駅から奈良交通バス「粟原」下車、徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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