日本歴史地名大系 「粟原寺跡」の解説
粟原寺跡
おうばらでらあと
[現在地名]桜井市大字粟原
粟原川の谷の南側、粟原集落の中に位置したが、現存しない。「大和志」に「粟原廃寺」として「粟原村、其宝塔露盤今在多武峯妙楽寺、勒曰粟原寺壱院四至、東限竹原谷東峯、南限大峯樫村谷、西峯、北限忍坂川」とみえ、寛政四年(一七九二)の柴野栗山著「寺社宝物展閲目録」多武峯寺条に「粟原寺塔露盤 和銅八年銘有之」とある。この露盤の伏鉢は
<資料は省略されています>
とある。これによれば天武天皇の時、仲臣大嶋が草壁皇太子のために伽藍を造営することを発願、額田というものが持統天皇八年(六九四)に起工、まず金堂をつくり、丈六の釈迦像を安置、大嶋の没後二二年にあたる和銅八年(七一五)に至って三重塔も整ったことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報