大原村(読み)おおはらむら

日本歴史地名大系 「大原村」の解説

大原村
おおはらむら

[現在地名]大東町大原

北から東・南にかけて鷹ノ巣たかのす(七九二・一メートル)原台はらだい山・室根むろね山など、西は鷹ノ巣山に連なる丘陵で囲まれた南北に細長い村。中央を砂鉄さてつ川が南へ流下し、南方中心部で西に流れを転じる。ほぼ東西に今泉いまいずみ街道が走り、大原宿が置かれた。当地は小萩こはぎ庄といったが、嘉祥―貞観(八四八―八七七)年中円仁が大原大明神を勧請して続石つづくいし神社(現大原神社)を建てたことから大原村となったといわれる(「岩井郡東山名所神社仏閣古事記」熊谷文書)。応永八年(一四〇一)八月一二日の道光寄進状および同日付の栄三寄進状(小友華蔵寺文書)に「東岩井郡大原庄」「東岩井大原庄」がみえ、庄内の地名として砂子田があげられるが、当地を含む大原庄の存在などについては不詳。元亀二年(一五七一)三月一四日の黄海きのみ一明院(現同上)宛の岩淵近江守書状写(黄海一明院文書)に「大原」とある。

寛永一九年(一六四二)の大原村検地帳(大東町史)によれば、田一〇三町六反余・代一三五貫三三七文、畑四六八町余・代九三貫七文、茶畑二反余・代四七四文、名請人数二二六。正保郷帳では大原宿とあり田一三四貫九三〇文・畑九三貫二二文、ほかに新田五七五文があり、小松山と注記される。大原本郷・大原新山おおはらにいやまに分れ各々に肝入が置かれた。元禄一一年(一六九八)の絵図(亀卦川家蔵)では人数三千八三九。「安永風土記」では田一四六貫五九六文・畑一二三貫七八四文(うち茶畑五四六文)。人頭五三三、家数五八五(うち名子八・水呑三五・被官六・借屋三)、男一千六一〇・女一千四〇五、馬八〇八。御林二三ヵ所・堤六ヵ所・堰二〇ヵ所がある。代数有之百姓四一人・品替百姓五人をあげる。大原宿は享保四年(一七一九)に本家作御免となり、一市ひといち(長さ一町二五間・人頭三六)六日むいか(長さ一町一四間・人頭三三)たち(長さ二町一一間・人頭五一)の三町からなる(「楽山公領内御巡視案内届」大原町誌)

大原村
おおはらむら

[現在地名]大柿町大原

小古江こふるえ村の南東にあり、東の福連木ふくれぎ峠を経て柿浦かきのうら村に通じる。北西は大原湾に面する。陀峯だぼう山の麓に発し北流する八幡はちまん川が河内こうちで西流して大原湾に注ぐ。その流域に形成された比較的広い平地と丘陵の緩斜面とに集落が展開する。内陸化した地に高津たかつ(現高名津)船津ふなつ浜之内はまのうち(現浜ノ内)などの地名があり、もとは大原湾が深く湾入していたと考えられ、戦国時代以来の埋立で耕地の拡大が図られた。南西の深江ふかえ村に飛郷がある。

年未詳七月付の大鳥居材木出所注文写(大願寺文書)に「一真柱楠弐本、能美大原中村より出」とあり、永禄四年(一五六一)一〇月四日付の厳島社大鳥居棟札写(同文書)に「大原村社一宇調返進之」とみえる。正徳五年(一七一五)の佐伯郡両能美島寺社古跡覚書帳(沖美町専念寺蔵)にみえる永禄七年一二月吉日付の大原八幡神社棟札写には「能美庄大原村」と記される。

大原村
おおはらむら

[現在地名]伊根町字大原

伊禰浦いねうら三ヵ村のうちの平田ひらた村の北に位置し、東は海に面する。慶長検地郷村帳に高一五一・四四石「大原村」とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で二四五石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、翌九年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領と変遷。

東部に地先をもって早くから漁業が行われたことは次の下野かばた家文書でわかる。

大原村
おおはらむら

[現在地名]岸本町大原

村の南、大原千町中央部の緩やかな傾斜地に位置する。南部を別所べつしよ川が深い谷をつくりながら西流し、また東隣の小林こばやし村境に源を発するへそ川が村内を流れる。「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)八月八日条に京都嵯峨菩提院領として「伯耆国大原保」とみえ、同保は「三百貫許在所」で、このうち七、八〇貫文が菩提院へ納められていた。菩提院は康正二年(一四五六)に没した三千院門跡義尭(将軍足利義教の子、菩提院殿)の菩提所である。長享二年八月一八日の義尭の三十三回忌にあたり、菩提院院主松嶺は同保を引当として五、六〇貫文の仏事費用を借入れようとしたが、将軍足利義尚の了承が得られなかった。なお、この大原保は当地に比定する説が有力ではあるが、確定するには至っていない。

大原村
おおはらむら

[現在地名]利根村大原

薗原そのはら村の北方に位置し、西方高平たかひら(現白沢村)から生枝なまえ(現同上)を経て数坂かつさか峠・椎坂しいさか峠を越える会津街道と、その北方高平村から直接栗生くりう峠を越える会津街道が当地で合する。同街道は当地から北上、高戸屋たかとや村・追貝おつかい村方面に向かう。大原新町・大原町ともよんだ。利根郡に属した。中心集落は、慶長(一五九六―一六一五)初期に当村西部の山口やまぐち切畑きりはた・栗生、北部の久保くぼなどに散居していた人々が、沼田藩真田氏の命によって集住、形成したもので、慶長五年二月の真田信幸朱印状(大原区有文書)で移住者諸役と新田年貢三ヵ年、売買諸役が免除された。以後会津街道の馬継場として、また会津や利根郡からの物資の集散地として発展した。万治二年(一六五九)の馬次免許上納樽代請取(同文書)によると、馬継免許の代償として金五両を沼田藩に上納している。

大原村
おはらむら

[現在地名]倉吉市大原・広栄町こうえいちよう

天神川の右岸、上余戸かみよど村・下余戸村の南方に位置する。倉吉往来(鹿野道)が通る。円谷えんだに村で竹田たけだ(天神川)を渡って当村に至り、集落南端の大原歩危おはらぼうきとよぶ難所を越えて大瀬おおぜ(現三朝町)に入る。河村かわむら郡に属し、拝領高は四二〇石余。倉吉荒尾氏・倉吉組士伊木氏・同松岡氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば朱高四五九石余、高六二〇石余、うち畑高五〇石余、免五ツ六分。悪田加損米六石、川役銀二〇匁・藪役銀三匁、棟数七軒・役高一四〇人。男一一四・女一〇七で、ほかに禅門二・山伏清明院一・神職家内六。産土神は五社大明神(現大原神社)であった。

大原村
おおはらむら

[現在地名]多治見市大原町・小泉町こいずみちよう大沢町おおさわちよう平井町ひらいちよう幸町さいわいちようひかりおか

西に高社たかしろ山がそびえ、その山麓より中央を東へ流れる大原川支流大沢川沿いに開けた集落。北は根本ねもと村。周囲の丘陵地からは平安中期の白瓷(灰釉陶器)、鎌倉期の白瓷系陶器(山茶碗)の破片が出土している。永徳三年(一三八三)一一月日の室町幕府奉行人封裏寺領目録写(永保寺文書)に「大原郷」とみえ、郷内に永保えいほう寺領の田一町があった。永正一〇年(一五一三)一〇月には伊勢皇大神宮から当郷などに対して御裳濯みもすそ(現三重県)の堤防修理用の河籠米催促が出されており(「皇大神宮宮司庁宣写」神宮文庫蔵)、伊勢内宮領であったとも考えられる。

大原村
たいばるむら

[現在地名]郷ノ浦町大原触たいばるふれ平人触ひろうとふれ釘山触くぎやまふれ

志原しわら村の北東にある同村枝郷。地内の田原たいばる天神(大原大明神とも、現大国玉神社)を「延喜式」神名帳に記される石田いしだ郡一二座の一つ「大国玉神社」に比定する説、またみやはら八釼やつるぎ大明神(つるき宮とも、現弥佐支刀神社)を同じく「弥佐支刀ミサキトノ神社」に比定する説がある(「一宮巡詣記」「壱岐神社誌」など)。嘉慶二年(一三八八)八月二三日の沙弥宗正譲状(吉永文書)に「なかれ川二反」とみえ、次郎三郎長に譲られている。

大原村
おおばらむら

[現在地名]錦町大字大原

玖珂郡の北部、宇佐うさ村の南に位置し、東は安芸国中道なかみち(現広島県佐伯郡佐伯町)。萩藩領奥山代宰判に所属。

村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)にみえ、「宇佐郷」の属村として「大原」が記される。永禄(一五五八―七〇)頃と思われる毛利隆元の児玉就忠宛の文書(「閥閲録」所収渡辺新右衛門家文書)に「山代之内宇佐大原」とあり、慶長五年(一六〇〇)の検地帳に「大原村」と出る。

大原村の近隣諸村との関係については「注進案」に、「往古は宇佐を本部の郷として、宇佐郷・大原を一円に宇佐村と名付、慶長年間御検地の節、三ケ邑と相分り、復タ其已後明和年間、村寄せ相成、爾来宇佐郷大原邑と唱来候」とある。

大原村
おつぱらむら

[現在地名]清見村大原

楢谷ならだに村の南、馬瀬まぜ川下流側に開けた村。村の上流側で支流まつ谷を合せた馬瀬川は、集落の東山麓を南流し、集落の尽きるあたりイラス谷合流地点で北に転向、蛇行しながら途中小原おばら谷を合流して益田ました郡に抜ける。郡上ぐじよう方面に向かう道はこの転換地で馬瀬川から離れ、イラス谷沿いに坂本さかもと峠を越えて郡上郡に抜ける。長林ちようりん寺の長享三年(一四八九)二月一五日本願寺蓮如下付の方便法身尊像裏書に「美濃国満世郷大原願主釈空善」とある。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の川上かわかみ郷に村名がみえ、高七三石余、物成高は八石余。

大原村
おおはらむら

[現在地名]高郷村大田賀おおたが

田中たなか村の東、高寺たかてら(現会津坂下町)の西麓に位置する。河沼郡坂下組に属し、南は同郡くぼ(現会津坂下町)、北東は同宇内うない(現同上)。慶長一六年(一六一一)まで会津地方と越後を結ぶ越後街道の本道であった勝負沢しようぶざわ越の道が通り、当村は勝負沢峠(高寺山北方の鞍部)の西の登り口にあたった。この街道はのちに南方に移った越後街道本道に対する脇道の一となった。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに大原とみえ、高七一石余。用水は天和三年(一六八三)に築いた臼森うすもり(周囲五八間)、同じく元禄七年(一六九四)背炙せあぶり(周囲九七間)、元文三年(一七三八)柳清水やなぎしみず(周囲一二〇間)などによった(「高郷村史」など)

大原村
おおはらむら

[現在地名]藤原町大原

たき村の南、鬼怒川中流左岸段丘上に位置し、会津西街道に沿って南北に細長く集落が形成される。近隣村に比較して平坦地が広い地形が村名の由来ともいわれる。慶安郷帳に村名がみえ、田一五石余・畑一七六石余。寛延四年(一七五一)から明和元年(一七六四)まで下総佐倉藩領となった(紀氏雑録続集)以外は宇都宮藩領で、慶応二年(一八六六)からは高徳藩領。会津西街道の宿駅で、問屋は名主の兼帯。享保七年(一七二二)高徳たかとくより一里四町の駄賃四五文、藤原への一里半の駄賃一五文(「道法・駄賃覚書」坂本竜太文書)

大原村
おおばらむら

[現在地名]三和町字大原

近世河合かわい村の一集落であるが、実態としてはほぼ独立した村であったと思われる。佐藤信淵の「巡察記」も「川合ノ郷七村」の一つとして「大原」をあげる。民家数九七戸(丹波志)

土師はぜ川支流の川合川上流域、天田郡の最東北部を占める。「丹波志」には「大原神社東川ヲ渡ル京橋ト云、是ヨリ左エ行小谷ト云、凡三十町行ハ三郡ケ岳船井郡境、同郡和知村エ牛馬道、此京橋ハ御帳付也ト云」とあり東は船井郡に通じていた。

大原村
おおはらむら

[現在地名]白山町大原

雲出くもず川上流域、支流ふじ川の最上流にあり、山田野やまだのから城立じようりゆうを経て伊賀国奥鹿野おくがの(現名賀郡青山町)へ越す沓掛くつかけ(六六二・五メートル)の西南西にし峠越の山麓にあり、標高三〇〇メートルを超える山間部の村。「神鳳鈔」に「二宮大原御薗廿丁、九石、御贄紙」とあり、「外宮神領目録」には「太原御薗 六月紙十二帖桶二柄三度御祭」とある。

文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には四七石五斗余で村名は尾原村とみえる。近世は慶長一三年(一六〇八)以降津藩領。寛延年中(一七四八―五一)の家数二〇、人数九一、牛六、馬一、神祠に八王子がある(宗国史)

大原村
おおはらむら

[現在地名]安塚町大原

北流する小黒おぐろ川中流の山麓沿いにある。北の対岸は和田わだ村、東の行野ゆくの川をさかのぼると行野村、南は樽田たるだ円平坊えんだらぼう戸沢とざわの各村、西は小黒こぐろ村に各々通じる交通の要地。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「直嶺分此外三方分大原村 中」とあり、本納二五石九斗二升四合・縄高六七石七升三合、家六軒・二一人。近世初頭、年未詳の本願寺教如書状(専敬寺文書)には小黒専敬せんきよう寺の取次で「大原村 十六日講中」がほか一〇講中とともに銀子一〇〇目を懇志として教如に納めている。正保国絵図では高一〇九石余。天和三年郷帳では高一〇四石七斗余、うち山高三石一斗四升一合・漆高一石五斗九升・青苧高一斗三升八合、反別田六町五反余・畑屋敷二町八反余・山林一四町一反余・青苧畑三畝余で漆木一五九本。

大原村
おおはらむら

[現在地名]いわき市小名浜大原おなはまおおはら小名浜おなはま西君にしきみ塚町つかちよう

矢田やだ川が村内を流れて藤原ふじわら川に合流する。東は岡小名おかおな村、南は小名浜の中町なかちよう村・西町にしちよう村。西は南富岡みなみとみおか村、北は住吉すみよし村。永禄一二年(一五六九)六月一〇日の岩城重隆充行状(岩城文書)によれば「大原并浜山野事」が佐藤大隅守に宛行われている。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高五四五石余。

大原村
おおはらむら

[現在地名]桃山町大原

竜門りゆうもん(七五六・六メートル)の南西山麓に位置し、村内を柘榴ざくろ川の支流愛護あいご川が流れる。北と西は高野たかの(現打田町)、東は善田ぜんだ村に接する。「続風土記」は「竜門山の西南の原なる故大原と名つくならん」と記す。大原の地名は応永三二年(一四二五)五月二六日付の天野社一切経会段米納日記(又続宝簡集)に「安楽川庄内(中略)壱斗参升 大原北郷内」とあり、中世は荒川あらかわ庄に含まれた地であった。

大原村
おおはらむら

[現在地名]多古町喜多きた

東台ひがしだい村の北に位置し、多古橋たこばし川右岸の丘陵端に立地する。中世は千田ちだ庄に属し、隣接する現飯笹いいざさにかけては大原郷と称され、在地領主として千葉氏系の大原氏が知られる。神代本千葉系図は原清常の子息に大原三郎常光(兵衛尉)を載せ、三郎左衛門尉重綱・三郎兵衛尉政常・彦三郎常明と継いでいる。大原氏の拠点とされる大原城跡(字城之内)には土塁が残り、当地の鎮守である妙見社が祀られている。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に「木内五郎左衛門入道殿分 大原 田数六反」とみえ、当地の分銭(反当り二五文)が香取社の造営料に充てられている。

大原村
だいばらむら

[現在地名]八潮市大原・八潮

古綾瀬ふるあやせ川の氾濫原の沖積地に位置し、西は大曾根おおそね村、北は中馬場なかばんば村。古くは馬場村のうちで、いつの頃か上・中・下の馬場村に分村し、のち下馬場村が大原村と改称したという(風土記稿)。江戸下妻道沿いにあり、寛永年間(一六二四―四四)まで宿場として栄えたが、草加宿が開設されると同宿と下総松戸宿、千住せんじゆ宿(現東京都足立区)八条はちじよう宿への馬継場となり(同書など)、正徳五年(一七一五)の千住宿からの人馬賃銭は荷物一駄七八文・乗掛荷人七八文・軽尻五二文・人足四〇文であった(日光道中宿村大概帳)。田園簿では田方二〇七石余・畑方九四石余、幕府領。寛文二年(一六六二)旗本森川下総守領となり、同一一年一部が分家の森川主水に分地され(「寛政重修諸家譜」など)、両家の支配は幕末に至る(改革組合取調書など)

大原村
おおはらむら

[現在地名]三田市大原

川除かわよけ村の北西、有馬富士ありまふじ(三七四メートル)の南麓丘陵および平坦地に立地する。西端を武庫むこ川が流れ、並行して丹波への街道が通る。暦応二年(一三三九)六月日の貴志義氏軍忠状案(余田文書)によると、北朝方の義氏は前年一〇月一九日に唐崎からさき(現神戸市北区)に押寄せ、敵陣のあった大原村の在家四〇余宇を焼払っている。慶長国絵図に小原村とみえ、高六五〇石余。正保郷帳には大原村で高八三〇石。天保郷帳では高八九三石余。享和二年(一八〇二)の菱屋平七長崎紀行(京都大学文学部蔵)には福島ふくしま村より「五六丁行バ大原村、茶屋多し」とある。

大原村
おおばらむら

[現在地名]御調町大原

植野うえの村の飛郷山岡やまおか組の東に位置し、世羅郡南部と接する宇根うね(六九八・八メートル)山系にある山村。耕地は山間の谷々に開かれ、「芸藩通志」に水利は不便とある。東部山間部を石見路(赤名越)が南北に通じる。南西方向に位置する野間のま村はもと当村の飛郷であった。宇根山山麓にあたる村南西部のほとけ(現野間)には、「弘法こうぼう谷の石ごうろ」とよばれる岩海がみられる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳で高三六六・三三一石。寛永四年分御免目帳之覚(槙田家文書)によると、屋敷方四・五五石、畠方二九・一四七石、田方一二五・五五石とあり、寛永六年分大原村御皆済目録(同文書)によると、高一九六・二七三石で〇・一五石が御蔵屋敷。

大原村
おおばらむら

[現在地名]美作町大原

友野ともの村の南東に位置し、北西流する大原川沿いに同村に通じる道がある。地字に神場かんば大谷おおたにみね・後坂・松ヶ乢まつがたわ・袋山・金山・父尾がある(東作誌)。永禄一一年(一五六八)八月一〇日の浦上宗景奉書(美作古簡集)に「神庭山手」とあり、長瀬与五郎に与えられている。正保郷帳に村名がみえ、田七八石・畑四〇石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一五石余・開高一九石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は下倉敷しもくらしき村と同様。「東作誌」によれば毛付高一一七石余、戸数四四、男一〇三・女七五。溜池は四ヵ所。慶応二年(一八六六)の改政一揆では一揆勢の屯集する拠点となり、炊出しも行われた(「黒田日記」鷹取家蔵)

大原村
おおはらむら

[現在地名]伊南村大原

小立岩こだていわ村の北に位置し、集落は檜枝岐ひのえまた川の右岸にある。集落の中央部を沼田街道が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「大原 廿九石六斗」とある。慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)でも同高で、免二ツ八分。寛文五年(一六六五)の伊南郷村々改帳(馬場家文書)では高五八石余、免三ツ八分で年貢は金納。

大原村
おおはらむら

[現在地名]紀伊長島町大原

中桐なかぎり村の北にあり、集落は十須じゆうす川左岸にある。中世は伊勢神宮領で、「志摩国旧地考」に「古クハ赤羽谷ハ二江(二郷)ニ属シテ丹島御厨ナリ」とある。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「赤羽村内大原村」と記されている。長島組に属し、延享三年(一七四六)長島組書上帳(紀伊長島町郷土資料館蔵)に家数五一、人数二八九、馬六、牛一二とある。天保飢饉の影響を受け天保一〇年(一八三九)頃家数は一七、人数は一一八となった(紀伊続風土記)

大原村
おおばらむら

[現在地名]阿南市長生町ながいけちよう

桑野くわの川を挟んで本庄ほんじよう村の南に位置する。里として落田・会下えげがある(阿波志)。慶長二年(一五九七)の分限帳に那西なさい郡大原として樋口分右衛門知行分一〇〇石・井村清左衛門知行分二〇〇石とあり、ほかに桂国けいこく寺領二〇石がある。なお樋口分右衛門(文右衛門)知行分の一〇〇石(百姓二人)は市原三左衛門に加増されたとみられる。正保国絵図では高四一四石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三九〇石余・畠方二三石余、旱損と注記される。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男一一三・女八一。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高四七〇石余。

大原村
おおはらむら

[現在地名]静岡市大原

藁科わらしな川の中流左岸沿いにあり、対岸は富厚里ふこうり村など。枝村としててらもり只間ただまなどがある(修訂駿河国新風土記)。領主の変遷は富厚里村と同じ。元禄郷帳では高三三四石余。旧高旧領取調帳では米津領三三四石余・東泉とうせん(現曹洞宗)除地二石余。「駿河記」では家数八四。

大原村
おおはらむら

[現在地名]原町市大原

新田にいだ川の北岸、阿武隈高地東縁部に位置し、東は深野ふこうの村、新田川対岸は大谷おおがい村。「奥相志」に「当邑沃土五穀最も佳く、林山多くして材木を出す」とある。正保郷帳では田方二三五石余・畑方一六四石余。明暦二年(一六五六)の高六三九石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高四一二石余。なお元禄検地高は九六六石余、ほかに新田六二石余がある(奥相志)。天保郷帳では高五四二石余。天明三年(一七八三)の家数八六、嘉永元年(一八四八)の家数四五(検地石高収納戸口等調)。天明三年の人数三九五に対し飢饉による同年の死亡離散一三八(死亡一〇七・離散三一)とされる。

大原村
おおはらむら

[現在地名]村松町大原

滝谷たきや川の形成した扇状地の扇央部に立地。西は新屋あらや村、北は安出やすいで村。正保国絵図に村名がみえ、村松藩領。「中蒲原郡誌」によると村域はもと荒地で、大部分が安出村の地籍にあたり住吉すみよしと称した。天保一四年(一八四三)村松藩主堀直央が家臣の堀玄蕃・小川平次右衛門・板垣常右衛門・早川宇助・坂上市郎右衛門および中島なかじま村里正安中藤助らに命じ、蛭野ひるの村地内字はらと併せて開墾が計画された。

大原村
おおばらむら

[現在地名]信州新町日原東ひはらひがし

さい川の北岸の沖積平野で、南から東に犀川がめぐり牧之島まきのしま村と相対し、西は日名ひな村、北は山穂苅やまほかり村である。

牧城の香坂氏、牧之島城主の領治に属してきた。慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)では「弐百五拾石弐斗壱升壱合 大原村」である。元和八年(一六二二)松代領となる。

大原村
おおはらむら

[現在地名]日南町花口はなぐち

大倉おおくら(一一一二メートル)の北麓に位置し、村内を水源とする石見いわみ川の支流大原川が西流する。西は下石見村、東は花口村。拝領高は六三石余、本免は二ツ。寛文一三年(一六七三)の土免状(矢田貝家文書)によれば高六八石余(うち畑高一二石余)、ほかに新開一石余があり、物成一四石余、藪役四匁五分の小物成と、鉄山柄役一五匁および鉄穴二口に対して一一匁の運上銀が課されている。

大原村
おおはるむら

[現在地名]宇目町大平おおひら 大原

上爪こうづめ村の南東、すげ村の北東、朝日あさひ岳の南東に位置。重岡しげおか村から佐伯藩領仁田原にたはら(現直川村)への道が通る。正保郷帳に村名がみえ、田高二四二石余・畑高三五石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高一七五石余。

大原村
おおはらむら

[現在地名]日南町笠木かさぎ

北流する笠木川上流左岸に位置し、集落は大草おおくさ(九一六・七メートル)のほぼ東麓に同川を見下ろすように広がる。北は日谷ひたに村、対岸は小雀こすずめ村。拝領高は一〇九石余、本免は六ツ。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一三七石余、竈数二〇。安政四年(一八五七)の切畑帳(日南町役場蔵)によると切畑四町三反余の高八石余、物成五石余。

大原村
おおばらむら

[現在地名]川上町高山こうやま・大原

東は高山村、西・南は高山市こうやまいち村、北は布賀ふか(現備中町)に接する狭小な高原上の村。正保郷帳に幕府領である布賀村(高四八〇石余)の枝村として村名がみえる。明和三年(一七六六)の御領分村々田畑高之覚(山崎文書)によると、独立村として高四〇石余、旗本山崎領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報