全日本産業別労働組合会議(産別会議)内に共産党フラクション(グループ)排撃を目的に結成された産別民主化同盟(産別民同)の発展として、1949年(昭和24)12月10日、組合員公称40万9000人で結成された全国中央組織(ナショナル・センター)。略称新産別。1988年(昭和63)10月、労働運動のいっそうの統一を目ざし解散した。
産別会議の1948年11月の大会で産別民同の解散、民同派産別幹部の除名が決議されたため、新産別の結成が急がれ、具体化の運びになった。産別民同は、日本労働組合総同盟(総同盟)、全逓信(ぜんていしん)労働組合(全逓)、国鉄労働組合(国労)などの民同とともに、49年2月全国労働組合連絡協議会(全労連)に対抗する国際自由労連(ICFTU)指向の全国労働組合会議の結成を目ざし、準備会を組織したが発展をみず、同年末から総同盟、労働組合運動の大勢を制した民同派各組合とともに日本労働組合総評議会(総評)の結成運動に参加した。新産別は、緩やかな共闘組織または協議体の結成を構想していたが、結成された総評がより強固な連合体になったため当初加盟せず、50年11月ようやく参加した。しかし、52年7月には、企業別組合を結集するだけでは産業報国会化の危険があるとして総評を脱退した。
その後、新産別は少数ながら、独自の路線を歩む、四大労働団体の一角を占めていた。1964年IMF‐JC(全日本金属産業労働組合協議会)の結成を推進、70年に始まり78年に再出発した労働組合戦線の統一運動に積極的に参加し、79年3月には中立労働組合連絡会議(中立労連)とともに全国労働組合総連合(総連合)を組織、全日本労働総同盟(同盟)と総評との間を斡旋(あっせん)、82年12月の全日本民間労働組合協議会(全民労協)の結成を推進してきた。87年に同盟と中立労連で結成した全日本民間労働組合連合会には新産別傘下の単産(単位産業別組合)が参加した。その時点では各単産は新産別と重複加盟の状態であったが、労働運動の統一を促すため、88年10月に新産別は解散した。さらに89年(平成1)11月、全日本民間労働組合連合会は総評などと統合し、日本労働組合総連合会(連合)となった。
[松尾 洋]
『新産別二十年編纂委員会編・刊『新産別二十年』Ⅲ(1969、70)』
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