日本歴史地名大系 「経武館跡」の解説 経武館跡けいぶかんあと 石川県:金沢市金沢城下第五連区仙石町経武館跡[現在地名]金沢市広坂二丁目文武教育のうち武を担当する加賀藩の藩校。文政五年(一八二二)明倫(めいりん)堂とともに現在の兼六園の地から仙石(せんごく)町に移転した。明倫堂の北東に廊下続きに建てられ、両校ともに御壇があり、経武館北西側には廊下続きで室内射場、北東地に幅一三間・長さ九〇間の馬場が設けられていた。藩校を管掌する督学の下に藩臣から選ばれた師範人がおり、授業方法は師藩人が各自の稽古場で指導し、定日に当館で指導に当たるというものであった。学課は、開校時には馬術・剣術など八課目、幕末には海防の必要等から砲術が加わるなど一八課目に増加した。 経武館跡けいぶかんあと 北海道:後志支庁共和町前田村経武館跡[現在地名]岩内郡共和町前田明治二九年(一八九六)前田(まえだ)村に移住していた旧加賀金沢藩士有志により同村起業社内に建てた鍛錬道場の跡。名称は旧藩の道場名を採用。青年の剣道修行と心身の修練の場とすることを目的に、有志らは山で木を伐り出し、間口七間・奥行七間の平屋を普請、南側に剣道の防具の置き場所を兼ねた見学席をとり、北側が二四畳敷の座敷、中央部の二四坪を剣道場とした。会合は農閑期が多く、一月・二月の寒稽古には四〇余人のほとんどが集まった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by