前田村(読み)まえだむら

日本歴史地名大系 「前田村」の解説

前田村
まえだむら

[現在地名]福知山市字前田・長山ながやま町・大池坂おおいけざか

西流する由良川に支流土師はぜ川が南方から合流する地点の東方、由良川左岸にあり、長田野おさだの段丘の北の、長田野より一段低い段丘と、その下の沖積平野部とに分れる。平野部には前田東村があった。東はつち村、西は土師村、南は長田村、北は由良川を隔てて川北かわぎた村。

村の西方土師村との間に愛宕あたご山があり、東麓の小字岩畑いわはたから縄文・弥生時代の石鏃・石斧・凹石・石包丁・石槍・石錘など二〇〇点以上が採集され、早くから集落が発展していたことがうかがわれる。長田野の下層は片麻岩状の粘板岩よりなり、小石器製作には材料が得やすい。ただし出土品のなかにはサヌカイトなどの移入品も混じる。また愛宕山の東北隅から弥生式の高坏形土器三個と台付無頸壺一個も採集された。

長田野段丘の北端部に宝蔵山ほうぞうやま古墳がある。七ヵ所に埋葬主体部があり、壺棺二、箱式棺一、長形の土製棺一、土壙三であった。鉄刀・鉄剣・鉄鏃と、長頸壺・甕・壺などの土師器が出土し、この地方では最も古い四世紀のものとされる。

前田村
まえだむら

[現在地名]八幡東区前田一―三丁目・祇園ぎおん一―四丁目・祇園原町ぎおんばらまち桃園ももぞの一―四丁目・西本町にしほんまち三―四丁目・平野ひらの一―三丁目・西台良町にしだいらまち東台良町ひがしだいらまち花尾町はなおまち東田ひがしだ一丁目など

現八幡東区の西部に位置する。北は内海(洞海湾)に面し、西は藤田ふじた村、東は尾倉おぐら村。村の北部を長崎街道が横断し、南部一帯に花尾山(花ノ尾山)坊住ぼうじゆう(権現山・高見山)皿倉さらくら山などがそびえる。集落は本村のほか和井田わいだたいら(「台良」と記し、「だいら」ともいう)・祇園原(「ぎおんばる」ともいう)がある(「続風土記拾遺」など)。花尾山の花尾城跡(藤田村・鳴水村にかかる)は中世に麻生氏の居城であった。小早川時代の指出前之帳では藤田村の枝郷として扱われ、同村に含まれて高付された。慶長七年(一六〇二)の検地高四四五石余、うち大豆四七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高五一一石余・反別五八町三反余、家数四七・社一、人数三〇七(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も五一一石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数八一・人数四〇七、馬一〇・牛六六(別本「続風土記附録」)。寛政年中に和井田の地先海岸の開作が行われた。

前田村
まえだむら

[現在地名]仙台市中田町なかだまち・中田一―七丁目・西中田にしなかだ一―七丁目

柳生やなぎう村の東、名取川右岸の自然堤防上および後背湿地の平地に立地し、旧河道も残存する。村の中央やや西寄りを南北に奥州街道が縦貫していた。享保九年(一七二四)の前田村絵図(斎孝助家蔵)によると、北の名取川を隔てて大野田おおのだ村境から南の上余田かみよでん(現名取市)境まで一三町七間半ある。村内をきゆうそん堀や十二郷じゆうにごう堀が西流し、隣接の村境にもなっている。村内に宿場の中田町がある。「封内風土記」によると、当村の辺りは古来から名虎郷なとらのさとが訓じ誤ったとされる名取郷なとりのさとといわれ、「観蹟聞老志」では名取の里と記されている。名取郷は条里制の一郷ともいわれ、前田を含め吉田よしだ手倉田てくらだ田高たこう・大野田・増田ますだ後田うしろだ・余田の八ヵ田が近隣にあり、開発の順序を暗示する地名でもある(名取市史)。「夫木抄」の里部には澄覚の作として「しひてとふ人はありとも恋すてふ名取の里をそことしらすな」と詠まれる。また「聞老志」に前田館とあるのは現在柿沼かきぬま館跡といわれる所で、佐々木勘解由の旧館と伝える。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「十貫九百文 中田」とある。

前田村
まえだむら

[現在地名]高松市前田東町まえだひがしまち前田西町まえだにしまち

新田しんでん村・古高松ふるたかまつ村の南に位置し、しん川中流域、北東に平尾ひらお山・岩滝いわたき山・滝本たきもと山・茶臼ちやうす山が連なり、南部の芳尾よしお山との間に平野が広がる。北西に山崎やまさき村・新田村にまたがる茶臼山古墳があり、平尾山麓や芳尾山周辺などにも多くの古墳が散在する。また宝寿ほうじゆ寺跡からは土壇・礎石と奈良期の古瓦が出土している。元和二年(一六一六)萱生増好は、伴半左衛門に当村の五〇石を宛行っている(「萱生増好宛行状」秋山文書)。同四年松原玄雪は、当村において酒造を免許された(「生駒正俊黒印状」松原文書)。寛永八年(一六三一)松原玄雪が、当村熊前の地一〇〇石を加増されている(「生駒家家老連署状」同文書)。寛永国絵図では前田郷で高三千六四石余(前田郷南亀田・北亀田・小村・水田を含む)。寛永一七年の生駒領高覚帳では前田ノ郷として高一千七八一石余。同帳に載る熊岡(分)村高一一七石余は村域と考えられる。

前田村
まえだむら

[現在地名]高崎町前田

長尾ながお(四二六・五メートル)の北麓に位置し、南東は大牟田おおむた村。同村より当村北西のふもと(現高原町)へ向けて真幸まさき往還が通じ、中央を高崎川が南流する。江戸時代は鹿児島藩領で初め高原たかはる郷に所属、延宝八年(一六八〇)新設された高崎郷に編入された(三州御治世要覧)。「三州御治世要覧」には「古ハ朝倉村相立有之候得共、当分前田村ニ込由」とあるが、表高を記した郷帳類などには朝倉あさくら村がみえる。北郷忠相等三代日帳写(都城島津家文書)によると、天文一一年(一五四二)八月二〇日に伊東・北原両氏がたか(現高城町)を攻めた際に「鳥越城」が落城し、紙屋かみや(現野尻町)の領主の米良紀伊守の申出により鳥越とりごえ野々美谷ののみたに(現都城市)の交換となったという。地内には小字の鳥越・鳥越前とりごえまえがあり、地理的条件からみて鳥越城は当地にあったのであろう。

前田村
めーだむら

[現在地名]浦添市前田まえだ経塚きようづか仲間なかま三丁目

中間なかま村の南、浦添うらそえグスクのある高地南側に位置。東側・南側も丘陵に囲まれ小湾こわん川・沢岻たくし川上流の盆地状を呈する平地に立地。北側丘陵の俗称ジリチン山付近が村落発祥地とする伝承がある。また旧屋敷地に前田地頭火神を祀り、根屋の志礼しりー(屋号)を中心に発展したという(「浦添市史」など)

元和七年(一六二一)三月一六日の尚恭浦添王子朝良宛知行目録(高嶺家文書)に前田村とある。絵図郷村帳琉球国高究帳に村名がみえ、高究帳では高頭一八二石余、うち田一六一石余・畠二一石余。稲穂祭のとき拝所の浦添城内殿で浦添ノロ、浦添按司・同親方・中間村百姓とともに前田地頭・当村百姓が供物を奉納(琉球国由来記)。乾隆六年(一七四一)から中間村・安波茶あはちや村とともに中間村龍福りゆうふく寺の看守を勤めた(「球陽」附巻尚敬王二九年条)

前田村
まえだむら

[現在地名]高山町前田

新富にいとみ村の西、小さく蛇行しながら北東流して肝属川に合流する高山川西岸にある。西・南は後田うしろだ村。高山郷地名方位及人体記(高山町役場蔵)によれば上古は西方にしかた村といい、その後後田村と合せて和泉田いずみだ村となり、いつの頃からかまた二村に分れて西方村は前田村と改称したという。慶長一九年(一六一四)盛光じようこう寺宛の知行目録(旧記雑録)に「高山西方村」とあり、改称はその後であろう。西方の地名は現前田地区のほぼ中央部東、高山川沿いに字名として残る。文永一一年(一二七四)以降肝付氏惣領に相伝された肝付郡西方(郡本)は当村を中心とする一帯と考えられる。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳には和泉田村とあり、高八九三石余。元禄国絵図にはほかに和泉田村のうちとして高山村と記す。

前田村
まえだむら

[現在地名]富士市前田

鈴川すずかわ村の西、吉原よしわら湊の西に位置し、南は駿河湾に面する。潤井うるい川が、北東部を南東流し、南東端でぬま川と合流する。中世は加島かじま庄のうち。永禄一二年(一五六九)八月四日付今川氏真判物(神尾文書)に「賀嶋之内前田之郷」とみえ、氏真は当郷名職と加地子分を神尾藤七郎に安堵している。前田郷は弘治元年(一五五五)に訴人があったため検地が行われ、増分と合せて五二貫七〇〇文となったが、このうち三五貫五〇〇文は納所分、残りの一七貫二〇〇文が加地子分(神尾氏取得分)であったという。

その後、当地は北条氏直が土中から聖観音の像を得た、あるいはもと当地にあった保寿寺跡に五輪塔が多数残っていたともいい、仏原ほとけはら村といった。土地の人が仏原の名を忌み、古郡文右衛門の検地のとき訴えて、潤井川の前にあるので、前田と改めたという(「修訂駿河国新風土記」ほか)

前田村
まえだむら

[現在地名]津市片田かただ町・片田新かただしん

井戸いど村の西、岩田いわた川の上流で、両岸に丘陵が迫り、伊賀街道が東西に走る。「和名抄」の片県かたかた郷に比定され、中世は片田郷の本郷とされる。延徳二年(一四九〇)の「定 永沽却渡道者之事」(神宮文庫蔵)に「合伊勢国 在所アノヽ郡 カタ田ト云里 五村一縁同小田殿兄弟」とあり、五村とは薬王寺やくおうじ久保くぼ・井戸・前田・田中たなかの五村であろう。

文禄検地帳の転記と思われる伊勢国中御検地高帳には「片田村」に含まれ、慶安郷帳(明大刑博蔵)では「前田村」と独立して記され、高四二七・六九五八石で、慶安元年(一六四八)の平高は七七一・〇八五石で、寄人足五五人であった(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)

前田村
まえだむら

[現在地名]山形市前田・前田町・東原町ひがしはらまち四丁目・南原町みなみはらまち一―三丁目・荒楯町あらたてちよう一―二丁目・南一番町みなみいちばんちよう南二番町みなみにばんちよう鳥居とりいおか松山まつやま一―三丁目・松波まつなみ一丁目・白山はくさん

小立おだち村の北、山形城下の南東に接し、千歳ちとせ山西麓平地に立地。文和二年(一三五三)から応安八年(一三七五)までに岩波石行いわなみしやくぎよう寺で書写された大般若経(石行寺蔵)の奥書に、料紙旦那として北蒔田道智坊の名がみえる。北蒔田は当地のこととされる。

前田村
まえだむら

明治三九年(一九〇六)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した岩内いわない郡内の村。明治三九年四月幌似ほろに村の一部、および老古美おいこみ村・梨野舞納りやむない村を合併して新たに前田村とし、二級町村制施行。同年もとの四ヵ村にあった各農会を統合して前田村農会設立。同四〇年田中葡萄園が開業、初めはリンゴであったが、同四三年から葡萄の苗木を育てて大正末期まで札幌方面からの注文に応じた。明治四二年前田郵便局開局。同四三年の戸数九〇六、男四千一六一・女二千八一二で、畑四千二六八町六反余・水田五三一町二反余(後志支庁管内概況)。同年イワオヌプリから産出する硫黄の製錬所を宿内そこないに設置したが、廃液の流出で稲作に被害が出たため同四四年製錬所を元山(硫黄鉱山)に近い中小屋に移した。

前田村
まえだむら

[現在地名]安濃町中川なかがわ

大谷おおたに川が穴倉あなくら川に合流する地点の左岸にあり、井上いのうえ村の西方、神田こうだ村の西北にあたる。集落は小高い丘の南側にある。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「前田」と現れ、慶安郷帳(明大刑博蔵)には田方三二六石余、畑方二四石余とある。「宗国史」には「旧称草生前田、今称安部前田」とある。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四二、ほかに郷士二、人口九七、牛一七。神祠に牛頭ごず天王・愛宕あたご三輪みわ、寺院に正運しよううん(真宗高田派)があった(宗国史)。明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)には戸数五〇、人数二二三(男一〇七・女一一六)、大工三、木挽二、瓦焼一、酒造一、馬一、牛七。

前田村
まえだむら

[現在地名]貴志川町前田

貴志川下流左岸の氾濫原上に広がる。西は尼寺あまでら村、東は調月つかつき(現桃山町)。村の北東部は丸田まるた川と貴志川の合流点となる。「続風土記」は「人家所々に分れ各小名あり、本前田、一本木、島畑、久保、上の段、片岸、堂の前といふ、其中にて本前田を本村とす、本前田貴志川の堤に傍ひて村し、土地平広なり、其外は皆西の方にありて土地高し、因て東の方を前田といふなるへし」と記す。また古くは大畠おおはたと称したようで、同書は「宮村八幡宮の湯立釜大永年間の銘に大畠と書す、又御輿の鏡の銘にも大畠と書す、又村中に井上惣五郎といふ者の家に八幡三所の梵字の掛幅あり、其背に天文十五年十二月上貴志ノ荘大畠村氏人衆中と書す」と記す。

前田村
まえだむら

[現在地名]鳩ヶ谷市前田・みなみ三―六丁目・緑町みどりちよう

つじ村の南に位置し、平坦な村。ほぼ中央を日光御成道が南北に通り、西端をしば川が南流する。古くは同道はこの堤上を通っていたという。平柳ひらやなぎ領に属する(風土記稿)。阿弥陀堂旧蔵の応仁三年(一四六九)七月一一日の年紀をもつ鰐口の銘(武蔵史料銘記集)に「下足立十二月田郷前田阿弥陀宝前」とみえ、中世には十二月しわすに含まれていた。

前田村
まえだむら

[現在地名]森吉町阿仁前田あにまえだ

北流する阿仁川と小又こまた川の合流点付近に位置する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「前田村」とあり、風張かざはり(現阿仁町吉田)と合わせての高は四六〇石余。中世後期を通じ嘉成氏領であったが、天正年間に入って安東(秋田)氏に包摂される。阿仁川沿いの八幡はちまん森に中世後期の館跡が現存、単郭状平坦面を残す。郭の南側から縄文土器片が出土するほか、主郭の西側は俗称ひょうたん馬場ばばとよばれる複郭状の平坦面をなす。その南に小字名として上館下かみだてしたが現存する。「秋田風土記」には「鳥海某と云者住せり。天正の始加成資清是を亡すと云」とある。

前田村
まえだむら

[現在地名]福島市大森おおもり

大森村の東に位置し、北は小島田こしまだ村、南は新田野目あらたのめ村。村名は大森じよう山の東前方の平地に開けたことに由来するという。天文七年(一五三八)の段銭古帳に信夫名倉しのぶなぐら方のうちとしてみえる「まいた」にあたるとみられ、段銭は五貫三二五文。翌八年五月二九日の伊達稙宗寄進状案(伊達家文書)によれば、稙宗は亡き子玄蕃丸のため前田郷のうち「さやの神てん」三五〇刈を昌伝庵に寄進している。

前田村
まえだむら

[現在地名]えびの市前田

原田はらだ村の西、西流する川内せんだい川北側の河岸段丘の周辺にある。当村で肥後街道から北へ分岐し、坂元さかもと苧畑おばたけを経て高野たかの地区をかすめながら北西へ登って肥後国球磨くま地方の大畑おこば(現熊本県人吉市)へ通じる飯野いいの(高野越)がある。球磨地方から飯野地方への物流の要路であっただけに、元亀三年(一五七二)の木崎原合戦の時、肥後相良軍はこの飯野越を経て大明司だいみようじの球磨陣まで進出してきたといわれている(えびの市史)

前田村
まえだむら

[現在地名]岩内いわない郡共和町前田

明治一九年(一八八六)から同三九年まで存続した岩内郡内の村。梨野舞納りやむない村の南東にあり、東に幌似ほろに村がある。明治一六年旧金沢藩主前田利嗣から士族授産のために受けた一〇万円を資金として、千島・択捉えとろふの鮭・鱒漁、当地リヤムナイにおける農場経営を兼業とする起業社を設立、同藩士西田三郎に管理させた。同一七年三次にわたって移住があり、七九戸が起業社と称する地区に入って開墾にあたった。

前田村
まえだむら

[現在地名]行橋市前田

中川なかがわ村の西に位置し、北は長木おさぎ村・上検地かみけんじ村、南西は下稗田しもひえだ村。長峡ながお川が東端を北流し、南東部は平坦地。西端にある前田大まえだおお池は京都みやこ郡内で最大の溜池である(福岡県旧租要略)。郷帳類には村名がみえず、公的には幕末まで「下稗田之内前田」として下稗田村に含まれていた(幕末・維新期「小倉領全図」小笠原文庫蔵)。しかし安永二年(一七七三)の清原家文書の大庄屋・小庄屋や慶応二年(一八六六)の六郡村名竈数内外調子帳(豊津藩歴史と風土)に前田村がみえるので、領内においては一八世紀後半には一村として扱われていたと考えられる。独立した村となったのは明治二年(一八六九)以降と考えられる。

前田村
まえだむら

[現在地名]大館市二井田にいだ比内前田ひないまえだ

大館盆地の南部、西北に流れる引欠ひかけ川南流域に位置する。

天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「七百刈 前田清左衛門」とあり、集落を東に見下ろす高台に中世後期の館跡が現存、「郷村史略」に「古城あり、浅利の士前田清左衛門といふ者居せしとぞ」とある。天正(一五七三―九二)の中頃、秋田氏領となり、同一九年には「大寺内村」と合わせ七六石一斗八合(「出羽国秋田郡知行目録写」秋田家文書)。慶長二年(一五九七)の戸数は六とある(「浅利頼平領内村数覚書」秋田家文書)

佐竹氏入部後新田開発が進み、享保一五年(一七三〇)の戸数は一〇で、枝郷は「山前田村先年金山山潰、稼不申候得共家七軒、羽立村三軒」の二ヵ村(六郡郡邑記)

前田村
まえたむら

[現在地名]黒羽町前田

北東から南流する松葉まつば川に、東から流れる野上のがみ川が合流する地点南岸一帯にある。北は堀之内ほりのうち村、東は野上村、南は阿久津あくつ(黒羽田町)。天正四年(一五七六)大関氏が黒羽城へ移ったことにより、当村の一部は黒羽城下および同城の郭内に組込まれた。同一八年大関氏が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「前田」がみえ、「久野又・針生」とともに五九七石一斗三升(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。以後黒羽藩領。慶安郷帳では黒羽村と一括される。「創垂可継」には「当時前田町」とみえ、当村の町場化していた一部で黒羽城下の一町をさす。同町は田一四町九反余・畑四九町九反余、泉地溜はなく、家数四〇。

前田村
まえたむら

[現在地名]飯舘村前田

佐須さす村の南に位置し、西は無垢路岐むくろぎ山の山並を隔てて伊達郡に接する。「まえだ」とも読まれる。明暦二年(一六五六)大倉おおくら村から分村し、同年の高二三石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高二三石余。安永三年(一七七四)の高一〇三石余・免四ツ(「山中郷年貢皆済目録」飯舘村史)。嘉永四年(一八五一)の高八九石余・免二ツ九分(「山中郷本田新高帳」同書)。天明三年(一七八三)の家数三三、嘉永元年の家数一二(検地石高収納戸口等調)。なお同三年の村明細帳(飯舘村史)によると、高九〇石余、田畑四二町余、家数一九(うち給人郷士二)

前田村
まえだむら

[現在地名]神戸町前田

大垣おおがき輪中の北端に位置し、北から東を平野井ひらのい川が流れる。対岸の北は下宮しもみや村・川西かわにし村、東は瀬古せこ村。貞和四年(一三四八)五月三〇日の光厳上皇院宣写(金沢市立図書館蔵松雲公採集遺編類纂)に「美濃国前田郷厨内陞任跡」とみえるが、これは当地にかかわるものであろうか。豊臣家五奉行の一人前田玄以は当地の出身と伝え、祖先の斎藤彦九郎が当地に住んだ時より前田氏と称した(寛政重修諸家譜)。また里伝によると、前田利家の一族が当地に潜んだため村名が生れ、地内に前田氏の墳墓と伝える五輪石が今も残る。

前田村
まえだむら

[現在地名]下関市大字前田

の山(二六八・二メートル)の東側に広がる。北は高畑たかはた村・長府ちようふ町、西は赤間関後地あかまがせきうしろじの各村に接し、南東は周防灘に面する。村内北東部には茶臼ちやうす山がある。長府藩領で東豊浦郡前支配に属する。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳に「前田村」とみえる。総石高は一一四石余、うち田六町余で九八石余、畠三町余で一一石余、百姓屋敷一三。豊浦藩明細書によれば、田畠総高三六二石余、うち田八町余で三四八石余、畠二町余で一三石余、百姓軒数三五軒で、人数は一八二人。

「豊府志略」に「前田は先君綱元公、前田山南の麓に於て、茶店数宇建置き政事閑暇の御時は此茶店逍遥徘徊し給ひ、或は滄海孤帆の跡、島かくれ行く朝霧を惜み給ひ」と記される。

前田村
まえたむら

[現在地名]巻町前田

西にし川左岸の自然堤防上の村落。仁ヶにか村の南にあり、対岸に割前わりまえ村、西方は水田を隔てて角田かくだ山麓に近接し、西南にある竹野町たけのまち村の枝郷。承応二年(一六五三)樋木戸田都が竹野町村地内の荒蕪地を開墾した。同年の年貢割符状(樋木家文書)に「竹之町村之内戸田都新田」とあり、「巳ノ起新田」の取米九石が記される。長岡藩領で寛永一一年(一六三四)三根山領となった(「長岡懐旧雑記」長岡の歴史)。万治二年(一六五九)前田村と改め、年貢は二六石五斗余(うち一〇石は悪所引)となる(樋木家文書)

前田村
まえだむら

[現在地名]双葉町前田

浜街道に沿い、南は夫沢おつとざわ(現大熊町)、北と東は新山しんざん村に接する。寛永一六年(一六三九)の検地高三二七石余とある(相馬藩政史)正保郷帳では田方一五八石余・畑方五八石余。元禄郷帳では前田村は高三五七石余、大畑おおばた新田は高二〇二石余。正徳元年(一七一一)の高辻帳(福島県史)では高三五七石余。天保郷帳では「古者 前田村・大畑新田弐ケ村」と注記され、高五六〇石余。天明三年(一七八三)の家数一六、嘉永元年(一八四八)の家数一二(検地石高収納戸口等調)

前田村
まえだむら

[現在地名]青森市前田

東は陸奥湾に面し、南は奥内おくない村、西は中山なかやま山脈で小田川おだがわ(現北津軽郡金木町)、北は清水しみず村に接する。

建武二年(一三三五)三月一〇日の北畠顕家国宣(遠野南部文書)にある「外浜内摩部郷并未給村々泉田湖方中沢真板佐比内中目等村」の真板まいたをこの村とする説もある。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高三三六・二六一石、うち田方三二一・一二石、畑方一五・一四一石とある。

前田村
まえだむら

[現在地名]丸山町前田

丸本郷まるほんごう村の南、丸山川右岸の段丘上に位置する。石堂いしどう寺蔵の天文一四年(一五四五)一一月二八日付多宝塔露盤銘に「丸前田平常家内室松子」の名が刻まれている。近世初期には上前田・下前田の二村で、慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録によると上前田村は高六〇石余、うち田方四〇石余、下前田村は高一〇八石余、うち田方六七石余。両村とも里見氏給人領。同一一年・同一五年の里見家分限帳でも両村とも給人領。正保郷帳では前田村一村となっており、田高一三〇石余・畑高五四石余、旗本大久保忠時領(寛永五年ないしは同一〇年から)

前田村
まえだむら

[現在地名]福野町前田

小矢部おやべ川右岸沿いに位置し、南は桐木きりのき村・三ッ屋みつや村。元和五年(一六一九)の家高新帳に「まへた」とみえ、役家数一二。正保郷帳では高三七九石余、田方二四町八反・畑方五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三二四石、免四ツ八歩、小物成は山役二七匁・鱒役一匁・鮎川役二五四匁(三箇国高物成帳)。同年の川崩検地引高三六石などにより天保一〇年(一八三九)の高二八八石余(「高物成帳」菊池家文書)。所属組は広安ひろやす村と同じ。

前田村
まえだむら

[現在地名]広川町前田

河瀬ごのせ村の東、津木つぎ谷の口に位置する。津木谷は狭小で平地に乏しいが、当地には少し平坦地がある。日高往還がひろ川に沿って村内を通っており、北は井関いせき村、南は下津木村猿川さるかわ。集落は庵原あんばら神代かみしろ露谷つゆだにの三つに分れ、各各人家が点在する。

前田村
まえだむら

[現在地名]中川区本前田ほんまえだ町・富田とみだ町前田

東は庄内川を隔てて野田のだ村に接する。枇杷島びわじま川・庄内川の下流のために村域の変化が著しかった。「徇行記」によれば、概高四三六石余はすべて藩士八人の給知。田は一一町八反二畝余、畑は八町二反八畝余。寛文一一年(一六七一)の家数六六、人数三七四(寛文覚書)。「渡シ船壱艘有之、前田村枇杷島川西東ニ田畑有之候故、百姓自分の渡シ船、船頭給米として弐石五斗宛、村中より渡シ、此外、近所之村々よりトイを取、御通り衆之時は、水主共ニ万場渡シ場へ船役ニ出ル」と「寛文覚書」にあり、「地方古義」は「前田渡船一艘人一人賃銭三文ツヽ馬一匹九文ツヽ、出水ノ時ハ一人五文ツヽ」と記す。

前田村
まえだむら

[現在地名]茨城町前田

涸沼前ひぬままえ川の左岸に位置し、東は長岡ながおか村。「新編常陸国誌」は中世、大掾氏の一族が居住して前田氏を名乗ったという。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に前田村四二九・一五石と出る。

前田村
めーだむら

[現在地名]大宜味村屋古やこ

(塩屋湾)の北岸に位置し、南は屋古やふ村。間切所属の変遷は塩屋さー村と同じ。絵図郷村帳に国頭くんじやん間切前田村とみえる。琉球国高究帳では同間切の「たミな村・前田村」というように田湊たんな村と併記され、高頭八三石余、うち田七八石余・畠四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報