日本歴史地名大系 「前田村」の解説
前田村
まえだむら
- 京都府:福知山市
- 前田村
西流する由良川に支流
村の西方土師村との間に
長田野段丘の北端部に
前田村
まえだむら
現八幡東区の西部に位置する。北は内海(洞海湾)に面し、西は
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
前田村
めーだむら
元和七年(一六二一)三月一六日の尚恭浦添王子朝良宛知行目録(高嶺家文書)に前田村とある。絵図郷村帳・琉球国高究帳に村名がみえ、高究帳では高頭一八二石余、うち田一六一石余・畠二一石余。稲穂祭のとき拝所の浦添城内殿で浦添ノロ、浦添按司・同親方・中間村百姓とともに前田地頭・当村百姓が供物を奉納(琉球国由来記)。乾隆六年(一七四一)から中間村・
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
その後、当地は北条氏直が土中から聖観音の像を得た、あるいはもと当地にあった保寿寺跡に五輪塔が多数残っていたともいい、
前田村
まえだむら
文禄検地帳の転記と思われる伊勢国中御検地高帳には「片田村」に含まれ、慶安郷帳(明大刑博蔵)では「前田村」と独立して記され、高四二七・六九五八石で、慶安元年(一六四八)の平高は七七一・〇八五石で、寄人足五五人であった(「検邑秘禄書中目録」一志町中谷家蔵)。
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
明治三九年(一九〇六)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
貴志川下流左岸の氾濫原上に広がる。西は
前田村
まえだむら
- 埼玉県:鳩ヶ谷市
- 前田村
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
- 宮崎県:えびの市
- 前田村
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
- 福岡県:行橋市
- 前田村
前田村
まえだむら
- 秋田県:大館市
- 前田村
大館盆地の南部、西北に流れる
天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「七百刈 前田清左衛門」とあり、集落を東に見下ろす高台に中世後期の館跡が現存、「郷村史略」に「古城あり、浅利の士前田清左衛門といふ者居せしとぞ」とある。天正(一五七三―九二)の中頃、秋田氏領となり、同一九年には「大寺内村」と合わせ七六石一斗八合(「出羽国秋田郡知行目録写」秋田家文書)。慶長二年(一五九七)の戸数は六とある(「浅利頼平領内村数覚書」秋田家文書)。
佐竹氏入部後新田開発が進み、享保一五年(一七三〇)の戸数は一〇で、枝郷は「山前田村先年金山山潰、稼不申候得共家七軒、羽立村三軒」の二ヵ村(六郡郡邑記)。
前田村
まえたむら
北東から南流する
前田村
まえたむら
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
- 山口県:下関市
- 前田村
慶長一五年(一六一〇)の検地帳に「前田村」とみえる。総石高は一一四石余、うち田六町余で九八石余、畠三町余で一一石余、百姓屋敷一三。豊浦藩明細書によれば、田畠総高三六二石余、うち田八町余で三四八石余、畠二町余で一三石余、百姓軒数三五軒で、人数は一八二人。
「豊府志略」に「前田は先君綱元公、前田山南の麓に於て、茶店数宇建置き政事閑暇の御時は此茶店逍遥徘徊し給ひ、或は滄海孤帆の跡、島かくれ行く朝霧を惜み給ひ」と記される。
前田村
まえたむら
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
- 青森県:青森市
- 前田村
東は陸奥湾に面し、南は
建武二年(一三三五)三月一〇日の北畠顕家国宣(遠野南部文書)にある「外浜内摩部郷并未給村々泉田湖方中沢真板佐比内中目等村」の
貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高三三六・二六一石、うち田方三二一・一二石、畑方一五・一四一石とある。
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
前田村
まえだむら
東は庄内川を隔てて
前田村
まえだむら
前田村
めーだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報