1936年11月に日本の関東軍の指導する謀略部隊(内蒙軍)が綏遠省への侵入を企てて失敗し,中国の抗日救国運動を急激に盛り上げた事件。関東軍は対ソ戦備の側面を固めるため内蒙工作をはじめ,1935年末には口北(張家口の北)6県を関東軍の指揮下にある李守信軍の支配下に入れ,また蒙政会(内蒙古自治政務委員会)の徳王に働きかけた。36年5月には徳王と李を正副主席として内蒙軍政府が徳化につくられ,田中隆吉関東軍参謀が徳化特務機関長を兼ねてその指導にあたった。国民政府はこれに対抗して綏遠省主席傅作義(ふさくぎ)に綏境蒙政会を設立させた。11月にはいると徳王は綏遠討伐を声明して進撃をはじめ,関東軍からも,兵力の直接参加はなかったものの,飛行機,自動車等が参加した。しかしこれは,中国軍の第一線を固めた傅作義軍にあっけなく敗北し,ついで蒙政会の本拠百霊廟も中国軍に占領され,奪回作戦も失敗した。抗日救国の動きを強めていた中国では援綏運動が熱狂的に盛り上がり,傅は抗日の英雄とされた。12月に西安事件がおこると,徳王は中央が張学良討伐に専念しうるよう停戦すると声明し,事件は終結した。
執筆者:今井 清一
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綏遠抗戦ともいう。内モンゴルの独立を唱えていたデムチュクドンロブ(徳王)は、1936年1月、日本に投降し、その援助下に蒙古(もうこ)軍総司令部を、5月には嘉卜(かぼく)寺(化徳)で蒙古政府をつくった。そして同年秋に、日本軍の支援の下で、綏遠省(内モンゴル自治区中南部)北東部を侵犯した。国民政府、綏遠駐屯の傅作義(ふさくぎ/フーツオーイー)らは、中国共産党の唱える抗日救亡運動にこたえて反撃に踏み切り、百霊廟(ひゃくれいびょう)(ダルハンムミンガン連合旗)と大廟(びょう)(赤峰)などで、たびたびの攻撃を撃退した。その成果によって排日抗日の運動がよりいっそうの高まりをみせ、西安(せいあん)事件を引き起こす誘因の一つとなった。
[山下龍三]
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