中国、明(みん)代中期の思想家。字(あざな)は允升(いんしょう)、号は整菴(せいあん)。江西省泰和県の人。青年時代に禅学に彷徨(ほうこう)したが、40歳ごろに朱子学に帰着した。思想家としては次の二面がある。一つは、朱子学の理気論に修正を加えて、相対的に気を重視したこと。もう一つは、王陽明(守仁(しゅじん))を真っ先に批判したことである。王陽明は『朱子晩年定論』を編纂(へんさん)して、朱子(朱熹(しゅき))は晩年に全面的に自己批判したのだと主張して朱子学に挑戦状を突きつけた。しかし王陽明の『朱子晩年定論』編纂に失錯があり、そこを羅欽順が的確に鋭く批判した。王陽明はこの批判を甘受した。ただ、羅欽順は王陽明の良知心学の構造を理解できなかった。彼の主著『困知記』は、陽明学興隆期における朱子学者の反応と苦慮をよく示す貴重な記録であり、日本でも和刻されてよく読まれたが、理気論の部分修正以外、哲学的にさしたる新運はない。この理気修正論が中国、日本で気の哲学として注目されたが、過大評価である。むしろ、歴史的には、王陽明批判の嚆矢(こうし)としてつねに高く評価され、朱陸論がかしましいなかでつねに話題とされたが、理気修正論は短所として非難、隠蔽(いんぺい)されて、純朱子学者として一面的に位置づけられる傾向が濃厚であった。
[田公平 2016年2月17日]
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…明の王守仁(陽明)は,理気の関係についてはさほどの関心をもたなかったが,〈理は気の条理,気は理の運用〉(《伝習録》中巻)という理気一体観を表明している。また,同時代の羅欽順(らきんじゆん)(整庵)や王廷相らは,理よりも気を世界の根源として理の実体化を批判し,清の戴震(たいしん)も理の実体化には反対し,理を事物に内在する条理だとした。日本の伊藤仁斎も,戴震より早く〈理は気中の条理のみ〉(《語孟字義》天道)と言い切っている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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