美術解剖学(読み)びじゅつかいぼうがく(その他表記)art anatomy

改訂新版 世界大百科事典 「美術解剖学」の意味・わかりやすい解説

美術解剖学 (びじゅつかいぼうがく)
art anatomy

人体の美術的表現のための解剖学で,芸術解剖学,芸用解剖学ともいう。美術解剖学は人体を美術の主要対象とし,それを客観的に再現しようとした西欧近世美術にとって必要な知識を体系化したものであった。解剖学が組織化されるのは16世紀であるが,それ以前にも人体の諸部分の形体の比率運動における筋肉の動きなどについての客観的観察を反映する美術作品がないわけではなかった。古代ギリシア,ローマにおいて人体解剖は行われなかったが,現物観察に基づいて理想化された人体表現が彫刻絵画に見られる。しかしキリスト教の支配する中世美術では肉体表現の価値が低く,観念的な類型描写に陥る。15世紀,フランドル画家は直接人体を観察して描き,イタリアの美術家は古代彫像を研究し,ガレノスの古代医学を理論的にだけ墨守していた医者に先駆けて人体を解剖し,観察した結果を客観的な映像として描出する表現力を手に入れるに至る。生理学的構造とその形体化が,美術家に科学者のような興味を抱かせたのである。その優れた例はレオナルド・ダ・ビンチに見られる。そこでは身ぶり顔面の表情による心理や性格の表現もそれと関連して研究された。ルネサンス時代には客観的な観察態度と正確な描写力に加えて,それを版画化して知識の確実な伝達が容易になる。ベネチア派の豊富な木版挿絵をもつA.ベサリウスの大型の〈解剖書〉(1543)はその好例である。美術家の解剖学的知識の必要は美術理論書(たとえばロマッツォGiovanni Paolo Lomazzo(1538-1600)の美術書《Trattato dell'arte della pittura》1584など)でも認められた。15世紀末に骸骨や〈腐敗過程を示す死体〉transitがしばしば描かれたが,このマニエリスム時代には,その描写の精度が高まり,骸骨や皮剝ぎ人体図(エコルシェécorché)がよく現れ,またときには筋肉の凹凸の極度に誇張された人体が描かれることもあった。

 16世紀まで,ことにレオナルド・ダ・ビンチにおいては解剖学と美術とは未分化の状態であったが,17世紀初めのアゴスティーノ・カラッチは,美術家が人体の内部構造まで知る必要を認めていない。バロック美術にとっては,〈真実〉よりも表現力のある〈真実らしさ〉の方が重要であり,カラッチの考えはそれを端的に示している。こうして科学と美術とは分離してゆく。とはいえ16世紀のローマのアカデミアでの授業に解剖標本が用いられ,17世紀中期に設立されたフランスの王立アカデミーではさらに解剖学専門の教授が置かれ,その後の各国のアカデミーでも踏襲されたが,これは15,16世紀の美術家のもっていたような関心に基づくものではなかった。アカデミーでは人体描写が構図の基本とされたから,〈アカデミー〉の語が〈人体素描〉を指すようになったのもふしぎではない。古代彫刻を解剖学的に分析した医学書も現れる(ジェンガBernardino Gengaの《人体解剖学書》1691,ローマ)。しかし,19世紀末以来,美術における人体表現の相対的な退潮と客観的に正確な描写よりもデフォルマシヨンの効果が評価される傾向が強まってくると,人体解剖学の古典的意義は減じられるにいたっている。
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百科事典マイペディア 「美術解剖学」の意味・わかりやすい解説

美術解剖学【びじゅつかいぼうがく】

art anatomyの訳。人物を写実的に制作する美術家の基礎知識として,人体各部の骨格,筋肉の形状とそれらの相互関係や運動による変化を研究する学科。16世紀の解剖学の組織化とともに確立された。レオナルド・ダ・ビンチの研究や,解剖学者ベサリウスの《解剖書》(1543年)などが古典的な例。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「美術解剖学」の意味・わかりやすい解説

美術解剖学
びじゅつかいぼうがく
art anatomy

人体や動物の解剖学において骨格,筋肉,腱,体表などの構造やその関連,または動作や運動によるその変化など,美術制作に関係ある事項を扱う分野をいう。特に彫刻と絵画において造形の基礎的条件として重要である。古代ギリシア時代の裸像彫刻にも,解剖学的関心の発達の跡が認められるが,美術家たちの医学に立脚した解剖学的知識が高まったのはルネサンス以降である。 A.ポライウオロは解剖学上の素描を残し,レオナルド・ダ・ビンチは芸術的な筆致によって人体や馬の解剖を探究した。 A.デューラーもまたそのすぐれた解剖学的知識を素描や版画に示した。

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世界大百科事典(旧版)内の美術解剖学の言及

【生体学】より

…最近では体表の形や大きさの観察の一方法として体表の等高線写真(モアレ縞写真)などが用いられることもある。 今日いわれている生体学は,ルネサンス中期に始まった,もともとは美術家を対象とする,体表の浮彫像や体部比例の描写のための研究を体系づけた美術解剖学art anatomyや,人種分類の指標の一つとして人類学で用いられてきた体表観察や計測法が集大成され発展したものということができる。現在では体表解剖学ともいわれるように,解剖学の一分野を占めるにとどまらず,さらに広く臨床医学,看護学,体育学,芸術学などにも応用され利用されている。…

【生体学】より

…最近では体表の形や大きさの観察の一方法として体表の等高線写真(モアレ縞写真)などが用いられることもある。 今日いわれている生体学は,ルネサンス中期に始まった,もともとは美術家を対象とする,体表の浮彫像や体部比例の描写のための研究を体系づけた美術解剖学art anatomyや,人種分類の指標の一つとして人類学で用いられてきた体表観察や計測法が集大成され発展したものということができる。現在では体表解剖学ともいわれるように,解剖学の一分野を占めるにとどまらず,さらに広く臨床医学,看護学,体育学,芸術学などにも応用され利用されている。…

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