翻訳|skeleton
骨だけになった死骸が骸骨で,全身の骨格をとどめているものをいう。古代中国では死者を浅く埋め,肉を落として魄とした後改めて葬った。魄は骸骨に似た状態である。古代エジプトでは,富裕階級の宴会で食後酒宴の前に木製の骸骨を会食者に見せて,いま現在を楽しむようすすめたという(ヘロドトス《歴史》2巻)。これは〈a skeleton at the feast(banquet)〉(〈座を白けさすもの〉の意)という英語の成句として今も残っている。
ボスコレアーレの遺宝中の銀コップには,大小の骸骨のレリーフがあり,その中の論争している2体はゼノンとエピクロスである。ローマのテルミノ美術館所蔵の遺物に〈汝自身を知れ〉と刻銘した骸骨のモザイクがある。古代において骸骨は個人の死後の姿を現すものであった。ローマのレムレス(死霊)またはラルウァエ(悪霊)はむしろミイラに近い形状で死後の亡者の姿を示していた。死の擬人化または死神はギリシアのタナトス,《ヨハネの黙示録》の蒼白い馬に乗って黄泉(よみ)を従える〈死〉,古代ノルマンのイムル,インドの死者の神ヤマなどあるが,いずれも骸骨の形をとっていない。ペストその他の流行病がヨーロッパを席巻した13,14世紀ごろには〈死を思え(メメント・モリ)〉の考えが盛んになり,〈3人の死者と3人の生者〉〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉のテーマが現れて,これを造形化する際に骸骨を使うことが頻繁となった。ただし,パリのイノサン墓地回廊の壁画〈死の舞踏〉(1424)をG.マルシャンが写して木版画集とした絵は,骸骨が人間と対になっていてその人の死後の姿を示している。一方,ピサのカンポ・サント壁画〈死の勝利〉(14世紀末)では死神はまだ骸骨の形ではない。だがホルバインは骸骨の姿をした〈死〉が生者をつれ去る様相を木版画に多く描いた(1520年代)。〈死の舞踏〉〈死のアルファベット絵〉などで生者の傍にいる骸骨は死神であり,これは同時代のベーハム兄弟などの画でも同様である。ペトラルカの《死の勝利》は死神を大鎌を持った骸骨の姿に見たてたが,この形はホルバインやベーハム兄弟らによって15世紀末から16世紀初めに決定的となった。12,13世紀ごろ,貴人が遠隔地で死ぬとよく煮て骨だけを故郷に送り,内臓と煮だし汁はその地に葬る風習があって,くり返し禁ぜられたにもかかわらず国王や司教もこの風習に従い,イギリスやフランスでは15世紀にも続けられたという(ホイジンガ《中世の秋》)。ボローニャ大学のモンディーノMondino dei Liuzziが初めて人体解剖をみずから行い,独立した解剖学書を著して(1316),以後解剖は各医科大学でなされ,骸骨の姿に関する知識はしだいに正確となった。ベサリウスの《人体構造》(1543)に頭蓋骨を持って瞑想するかなり正確な骸骨の図があり,シェークスピアは《ハムレット》の墓地の場を書くのにこれを念頭においたという。
日本では《餓鬼草紙》の中に墓地に横たわる骸骨の絵があり,一休が日常生活を営む骸骨を描いた《一休骸骨》もあるが,これらは個人の死後の姿であり,死または死の王,死神の形姿ではない。
→死 →どくろ
執筆者:池澤 康郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
字通「骸」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
骨だけになった死体をいい、骨のほかに靭帯(じんたい)と軟骨をも含む。skeletonの語源はギリシア語で、乾燥した体、ミイラ、骨格を意味する。死体は焼かれない限りは、腐敗、そして昆虫(とくにウジ)その他の動物による蚕食、損壊を受けながら、軟部組織が除去され、結局は骨格だけ(白骨化)となる。白骨化は種々の条件に左右されるが、普通、地上で約1年、土中で数年である。なお、骨盤骨、頭蓋(とうがい)骨、上腕骨は、骸骨の個人識別の際の資料となる。
[澤口彰子]
… 第1にそれは〈死〉そのものの擬人的表現として登場した。これは,草刈り用の大鎌か松葉づえか,砂時計かを手にした骸骨である。古典古代には骸骨としての〈死〉の擬人像は見られなかった。…
※「骸骨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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