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江川太郎左衛門 えがわたろうざえもん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

江川太郎左衛門
えがわたろうざえもん

[生]享和1 (1801).5.13. 韮山
[没]安政2 (1855).1.16. 江戸
江戸時代末期の幕臣。兵学家。本名は英龍(ひでたつ)。号は坦庵。江川家は代々伊豆国韮山(→韮山)の代官で,太郎左衛門と称した。天保5(1834)年,父の跡を継いだ英龍は支配地の民政に心を用い,種痘を施行した。伊豆沿岸の海防を命じられると,高島秋帆に師事して砲術を学び,小銃,大砲の製造に成功。嘉永2(1849)年には下田(→下田市)に来航したイギリス船『マリナー』号を説いて退去させるなど,外交面にも手腕を発揮し,マシュー・C.ペリー来航の際,登用されて勘定吟味役格海防掛に任じられた。品川砲台(→御台場),韮山反射炉(2015世界遺産)の築造など,めざましい業績を上げ,一流の砲術家と称せられた。農兵策など,難局に処する建策にもみるべきものが多い。

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デジタル大辞泉の解説

えがわ‐たろうざえもん〔えがはタラウザヱモン〕【江川太郎左衛門】

[1801~1855]江戸後期の砲術家。伊豆韮山(にらやま)の代官。名は英竜(ひでたつ)。号、坦庵(たんあん)。高島秋帆(たかしましゅうはん)に砲術を学び、江戸で教授。門下に佐久間象山木戸孝允らがいる。韮山につくった反射炉が現存。

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百科事典マイペディアの解説

江川太郎左衛門【えがわたろうざえもん】

幕末の洋学者,砲術家。名は英竜(ひでたつ),号は坦庵(たんなん)。江川氏は清和源氏の流れと伝え,平安末期に伊豆国八牧(やまき)郷江戸川に移り,以後同国の国人として代々太郎左衛門を称したという。
→関連項目大鳥圭介開国論韮山[町]農兵羽倉外記反射炉

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朝日日本歴史人物事典の解説

江川太郎左衛門

没年:安政2.1.16(1855.3.4)
生年:享和1.5.13(1801.6.23)
幕末の代官,砲術家。諱は英竜。字は九淵。坦庵と号した。江川家は中世以来の名家で,江戸幕府の伊豆韮山世襲代官。太郎左衛門は江川家当主の通称で英竜は36代。天保6(1835)年父英毅の死後代官職を継ぐ。所管地は武蔵,相模,伊豆,駿河,のち甲斐の幕領も加わったが,代官の役高はわずかで生活は質素だった。旧例にとらわれずに人材を登用,大いに民政に努め,「世直し大明神」と呼ばれた。種痘奨励でも知られる。 一方,海防(沿岸防備)にも意を用い,渡辺崋山と交遊を結ぶ。蘭学嫌いの目付鳥居耀蔵の策動により天保10年蛮社の獄で疑いをうけるが,あやうく難を逃れる。同12年高島秋帆に洋式砲術を学び皆伝を得,翌年洋式砲術師範を許され,江戸芝に縄武館を開く。ここで佐久間象山,川路聖謨 らも学んだ。それまでのオランダ語の調練の号令を改めて「まわれ右」などの日本語の号令語を考え出したのも英竜である。天保14年幕府の鉄砲方を兼ねたが,弘化1(1844)年兼帯を解任。嘉永2(1849)年幕府の許可を得て反射炉の建造に着手,著名な韮山反射炉は安政1(1854)年に起工されたが,その完成(1857)を見ずして病没した。コークスが入手できなかったためこの反射炉では銑が溶解できず,青銅製の大砲が鋳造された。銃砲火器に関する研究として雷汞(起爆薬)の実用化や着発信管の工夫などに独創的なものがみられる。この間嘉永6年ペリー来航に際して勘定吟味役格にあげられ,品川台場の築造責任者となる。また安政1年難破したロシアの軍艦ディアナ号の代わりの軍艦を伊豆戸田村において建造したが,これは日本初のヨーロッパ式艦船で,近代造船業の端を開いた。<参考文献>戸羽山瀚編『江川坦庵全集』

(所荘吉)

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世界大百科事典 第2版の解説

えがわたろうざえもん【江川太郎左衛門】

伊豆国韮山に屋敷をもつ江戸幕府の世襲代官。代々太郎左衛門を名のった。出自は,大和国奥之郷宇野に住した清和源氏源経基の孫,宇野頼親といわれる。9代親信のとき,伊豆国八牧郷江川に移住,その子治長は源頼朝挙兵に功あり,16代英親は日蓮に帰依,21代英信は姓を江川と改めたとされる。28代英長は,小田原北条氏麾下(きか)にありながら,徳川家康に通じ,1590年(天正18)韮山開城に功あり,家康関東入部にともない,96年(慶長1)4809石の土豪代官に取り立てられ,物成十分一を与えられた。

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大辞林 第三版の解説

えがわたろうざえもん【江川太郎左衛門】

1801~1855) 江戸後期の西洋流砲術家。伊豆韮山にらやまの代官。名は英竜ひでたつ。号は坦庵。1841年に高島秋帆に砲術を学び、翌年江戸で教授。53年から韮山に反射炉を築造、品川の台場を築き、大砲の鋳造も行なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

江川太郎左衛門
えがわたろうざえもん

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世界大百科事典内の江川太郎左衛門の言及

【携帯食糧】より

… 携帯食糧の発達は軍事上の必要によってうながされることが大きいが,日本では幕末・明治になってヨーロッパの技術を習得し,乾パン,ビスケットが軍用に供されるようになるまで大きな変化はみられなかった。軍事行動中の予備食としての乾パンを最初に研究試作したのは伊豆韮山(にらやま)代官の江川太郎左衛門で,1842年(天保13)のことだという。当時乾パンは兵糧パンと呼ばれ,その後諸藩もこれにならって兵糧パンをつくった。…

【佐久間象山】より

…1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840‐42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。…

【高島秋帆】より

…翌年幕命で出府し,徳丸ヶ原で操練を行い,名声を得た。幕府は高島流砲術を採用することとし,彼の所持する大砲を購入し,あわせて代官江川太郎左衛門に砲術の伝授を命じた。これ以後,西洋砲術は江戸では江川を中心にして普及した。…

【農兵】より

…農兵が現実的に構想されるのは,外国船が日本近海に現れ,また農村で一揆が頻発する,いわゆる幕末の内憂外患を迎えてからである。 幕府では1849年(嘉永2)伊豆韮山代官江川太郎左衛門が農兵取立てを建議したことが知られているが,実現するのはようやく63年(文久3)になってからである。しかし外圧を深刻に受け止めた諸藩では,水戸藩が55年(安政2)に着手し,相模三浦半島東岸の外警の第一線に当たった長州藩も,同年現地に1000人規模の農兵を組織した。…

【武州一揆】より

…さらに武蔵,上野に領地をもつ譜代大名に対し戒厳体制をとらせた。一方,代官江川太郎左衛門が編成した武州農兵は,横浜襲撃をめざして南下した一揆勢を多摩川築地河原で洋式銃をもって迎え撃ち壊滅させた。また入間郡所沢村より江戸方面に向かう一揆勢も,江川支配下の田無村組合農兵により阻止壊滅させられた。…

【世直し】より

…なお19世紀半ばまでは,騒動とは関係なく,世直し大明神が使われる場合も少なくなかった。寛政改革を行った松平定信が〈文武両道源世直〉と江戸市民から呼ばれたり,39年甲斐国で代官江川太郎左衛門が〈江川世直大明神〉という紙幟を立てられた,ということなどがその例である。
[世直し騒動]
 1863年(文久3)ごろから幕藩制国家の解体が決定的になり,大規模な騒動が各地で展開した。…

※「江川太郎左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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