出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
伊豆国韮山に屋敷をもつ江戸幕府の世襲代官。代々太郎左衛門を名のった。出自は,大和国奥之郷宇野に住した清和源氏源経基の孫,宇野頼親といわれる。9代親信のとき,伊豆国八牧郷江川に移住,その子治長は源頼朝挙兵に功あり,16代英親は日蓮に帰依,21代英信は姓を江川と改めたとされる。28代英長は,小田原北条氏の麾下(きか)にありながら,徳川家康に通じ,1590年(天正18)韮山開城に功あり,家康関東入部にともない,96年(慶長1)4809石の土豪代官に取り立てられ,物成十分一を与えられた。幕府の天領行政の強化により吏僚化を迫られ,1694年(元禄7)英暉の代150俵に縮小され,1723年(享保8)英勝は不正を理由に罷免されたが,50年(寛延3)英彰が代官職に復帰した。次の英征に至り,韮山屋敷を本拠に伊豆,相模を中心に周辺の国々の天領を管轄する韮山代官となった。
韮山代官中著名な英竜(1801-55・享和1-安政2)は,号を坦庵といい,1824年(文政7)代官見習となり,35年(天保6)代官を襲った。英竜の時代は,内に領主財政の逼迫,百姓一揆の頻発,外に異国船来航と内憂外患をかかえる幕府の解体期にあたり,改革派幕吏として水野忠邦の天保改革に参画した。代官役所の綱紀を粛正し,百姓一揆を鎮圧する一方,幕政については一貫して西洋軍制による兵制の改革を推進した。そのため,38年には渡辺崋山に近いことから目付鳥居耀蔵と対立,蛮社の獄を惹起する一因ともなった。42年高島流砲術の採用が認められるや,翌年門人第1号となり,韮山に塾を開いて幕臣,武士を問わず多数の人材を育成した。忠邦の失脚もあって一時退くが,ペリー来航もあって幕政に復帰し,台場の設置,韮山反射炉の建設等にあたるが,事業中途にして病没。英竜の構想は,養成した門弟に受けつがれ,武器製作,農兵制など,近代兵制に先駆したものとして評価されている。
執筆者:高橋 敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(所荘吉)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1801.5.13~55.1.16
幕末期の幕府代官・砲術家。父は英毅。名は英竜(ひでたつ),号は坦庵(たんあん)。中世来の名家である江川家は1596年(慶長元)から伊豆韮山(にらやま)(現,静岡県伊豆の国市)の世襲代官となり,代々太郎左衛門を襲名。ただし1723年(享保8)英勝のとき罷免され,英彰のときに復職。英竜は1835年(天保6)家督を相続。洋学者と交流し,38年目付鳥居耀蔵(ようぞう)とともに江戸湾の海防巡見を行った際,渡辺崋山から測量技師の推薦をえたことが蛮社の獄の一因となった。41年高島秋帆から高島流砲術を伝授され,その隆盛に努めた。幕府の海防政策に重用され,伊豆諸島の巡見,下田警備などにあたり,ペリー来航後,勘定吟味役格海防掛となり品川台場建設,反射式溶鉱炉建設などに尽力。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
… 携帯食糧の発達は軍事上の必要によってうながされることが大きいが,日本では幕末・明治になってヨーロッパの技術を習得し,乾パン,ビスケットが軍用に供されるようになるまで大きな変化はみられなかった。軍事行動中の予備食としての乾パンを最初に研究試作したのは伊豆韮山(にらやま)代官の江川太郎左衛門で,1842年(天保13)のことだという。当時乾パンは兵糧パンと呼ばれ,その後諸藩もこれにならって兵糧パンをつくった。…
…1833年(天保4)江戸に遊学,39年江戸に再遊し塾を開くが,アヘン戦争(1840‐42)の衝撃をうけて対外的危機に目覚め,以後〈海防〉に専心する。直ちに江川太郎左衛門(坦庵)に入門して西洋砲術を学び,やがてみずからオランダ語を始めて西洋砲術の塾を開く。弟子に勝海舟,坂本竜馬,吉田松陰,加藤弘之らがいる。…
…翌年幕命で出府し,徳丸ヶ原で操練を行い,名声を得た。幕府は高島流砲術を採用することとし,彼の所持する大砲を購入し,あわせて代官江川太郎左衛門に砲術の伝授を命じた。これ以後,西洋砲術は江戸では江川を中心にして普及した。…
…農兵が現実的に構想されるのは,外国船が日本近海に現れ,また農村で一揆が頻発する,いわゆる幕末の内憂外患を迎えてからである。 幕府では1849年(嘉永2)伊豆韮山代官江川太郎左衛門が農兵取立てを建議したことが知られているが,実現するのはようやく63年(文久3)になってからである。しかし外圧を深刻に受け止めた諸藩では,水戸藩が55年(安政2)に着手し,相模三浦半島東岸の外警の第一線に当たった長州藩も,同年現地に1000人規模の農兵を組織した。…
…さらに武蔵,上野に領地をもつ譜代大名に対し戒厳体制をとらせた。一方,代官江川太郎左衛門が編成した武州農兵は,横浜襲撃をめざして南下した一揆勢を多摩川築地河原で洋式銃をもって迎え撃ち壊滅させた。また入間郡所沢村より江戸方面に向かう一揆勢も,江川支配下の田無村組合農兵により阻止壊滅させられた。…
…なお19世紀半ばまでは,騒動とは関係なく,世直し大明神が使われる場合も少なくなかった。寛政改革を行った松平定信が〈文武両道源世直〉と江戸市民から呼ばれたり,39年甲斐国で代官江川太郎左衛門が〈江川世直大明神〉という紙幟を立てられた,ということなどがその例である。
[世直し騒動]
1863年(文久3)ごろから幕藩制国家の解体が決定的になり,大規模な騒動が各地で展開した。…
※「江川太郎左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加