1833年(天保4)以来,数年にわたる天保の飢饉の際,紀州藩儒遠藤勝助が有志を募って飢饉対策のために設けたのがはじめで,のちに新知識や新情報交換の会合となった。この会合をもって渡辺崋山,高野長英を中心とする洋学研究団体とみなす説があるが,崋山,長英が尚歯会の有力メンバーであったにしろ,会合の主宰者が遠藤そのひとであることは,当時の文献に〈遠藤勝助尚歯会〉と明記されていることから知られる。尚歯会での飢饉対策の成果としては,遠藤勝助の《救荒便覧》,高野長英の《救荒二物考》《避疫要法》などがあげられる。38年10月の尚歯会の例会で評定所記録方芳賀市三郎がイギリス船(実はアメリカ船)モリソン号渡来に関する秘密情報をもらしたため,海外事情に通ずる崋山,長英がこれに打払令を適用することの危険を警告して《慎機論》《夢物語》を著したが,のちに蛮社の獄により処罰された。これにより尚歯会も自然消滅した。なお,尚歯とはもともと敬老の意であり,老人を請じて詩歌を作り遊楽する会を尚歯会と称したが,中国で白楽天が催したのが最初とされ,日本でも平安時代に行われた。
執筆者:佐藤 昌介
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(1)尚歯とは敬老を意味し、高齢者が集まって詩歌管絃(かんげん)の宴を催すこと。平安時代、白楽天の例に倣って南淵年名(みなみぶちのとしな)(807―877)が小野山荘で催したのが最初。のち和歌・俳句の会ともなった。
(2)江戸後期、蘭学(らんがく)者を中心とする交友・研究結社。主宰は紀州藩儒官遠藤勝助(しょうすけ)。渡辺崋山(かざん)、高野長英(ちょうえい)、江川英龍(ひでたつ)、川路聖謨(かわじとしあきら)らが集まったが、蛮社(ばんしゃ)の獄で壊滅した。
[編集部]
江戸後期,紀伊国和歌山藩儒遠藤勝助が主催した会合。天保の飢饉対策研究を行い,「救荒便覧」「二物考」などの成果をあげた。その後はしだいに新しい知識・情報交換の場となった。1838年(天保9)10月に例会が催された際,幕府評定所留役芳賀市三郎が,近く再来航するはずの「英船」モリソン号に対する打払令適用という幕府の方針を漏らしたため,出席していた渡辺崋山が「慎機論」を,高野長英が「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」をそれぞれ著し,これに反対した。この著作により崋山は国元蟄居,長英は永牢に処されたが,遠藤は逮捕されなかったため,現在,同会を洋学研究団体・政治的結社とは考えない説が有力になりつつある。なお尚歯会は本来,老人(歯)を尊敬(尚)し高齢を祝う会のことで,845年唐の白楽天(はくらくてん)が,日本では877年(元慶元)に南淵年名(みなぶちのとしな)が催した。
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…洋画への傾倒は蘭学を学ぶ素地をつくったが,本格的に蘭学研究を始めるのは1832年(天保3)家老にあげられ,海岸掛を兼務して以来である。崋山は高野長英,小関三英らの蘭学者に蘭書の翻訳を依頼し尚歯会(しようしかい)を結成して西洋事情を研究した。そのころようやく海防が問題化した時期であったため,彼の学識を慕って集まる知識人が少なくなかった。…
※「尚歯会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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