耳たぶにつける装身具をいう。もともと耳たぶに穴をあけて飾り輪を通したことから、イヤリング、つまり耳輪の名が生まれた。今日ではネックレスや指輪に次ぐ日常的な装身具として、おもに女性の間で広く愛好されている。耳飾りをつけるには、普通、ピアス式(耳たぶに穴をあけ、穴に通してつける)、クリップ式(クリップで耳たぶを挟む)、ねじ留め式(裏側につけたねじで留める)の三つの方法がある。ピアス式は、耳たぶに針が通るほどの穴をあけ、針をこの穴に突き通して留める耳飾りで、釣り針形に曲げた針を穴にひっかけるものと、穴に通した針を耳たぶの裏で留め具(キャッチ)を使い留めるものとがある。クリップ式は、耳たぶを前後から挟んで留めるクリップをつけた耳飾りで、装飾部分の大きいものに多い。使用は簡便であるが、クリップのばねが強すぎると耳が痛くなる。ほかに変わったつけ方としては、耳の上に直接張り付ける接着剤つきのパッチド・イヤリング、磁石の力を使って耳たぶを挟む磁気イヤリングなどもある。
装飾の形には、装飾部分が耳にぴったりつくボタン・イヤリング型と、耳から垂れ下がるペンダント型(またはドロップ型)とがある。ボタン・イヤリングには、1960年代に流行したマイクロドット、ポルカドット、ポスツなどとよばれるものや、ボタン状の多様な形がある。ペンダント・イヤリングは下げ飾りがついていて、揺れ動く効果をねらったものでドロップ・イヤリングまたはイヤ・ドロップともいわれる。この系列には、シャンデリア・イヤリング(大きく豪華な飾りがついている)、モビール・イヤリング(小さく微妙に揺れ動く飾りのついたもの)、ジプシー・イヤリング(真鍮(しんちゅう)や金めっきの輪型)、タッセル・イヤリング(糸、糸状の金属、羽毛などの房飾りのついたもの)、フープ・イヤリング(輪型)などがある。風変わりなものでは、15世紀ごろの男性が、穴をあけた耳たぶに通した黒絹糸やリボンのイヤ・ストリングがある。
[平野裕子]
古代では装飾や呪術(じゅじゅつ)、あるいは地位の象徴として用いられた。『旧約聖書』やギリシア神話のなかにもイヤリングの記述があり、古代エジプトの壁画にはしばしば巨大な耳輪が登場し、発掘品のなかには鉄製のものや、宝石と金銀細工のペンダント型がみられる。古代ギリシアでは、男女ともに魔除(まよ)けとして用い、宝石やガラス製のペンダント型のものもあり、片耳にだけつけることも多かった。エトルリアでは精巧な金線細工や七宝(しっぽう)、真珠や白ガラスなどの多彩な発展をみせた。古代ローマになると宝石入りの長いペンダント型が流行となる。ビザンティンではおおむねこれを踏襲したが、中世には、ベールをかぶる習慣から一般に衰退した。16世紀になるとふたたびイヤリングは盛んに用いられるようになり、バロック時代には男性にも広く愛好された。これまでのピアス式に加えて、17世紀にはクリップ式やねじ留め式のものが考案された。18世紀は真珠の大流行をみた時代であるが、当然イヤリングにも反映している。18世紀末にはダイヤモンドに加えてサファイアやエメラルド、19世紀初頭にはふたたびカメオをあしらったものが登場し、ブローチやブレスレットなどとペアになったデザインはこのころからみられる。19世紀の後半、一時下火になっていた流行に再度火がつく。しかし特別の場合を除いては、かつてのように常時つけることは少なくなってきた。20世紀になって、断髪の流行を反映して、宝石もの(第一次世界大戦後は模造宝石のもの)が愛好されたが、広く一般化したのは第二次世界大戦後である。
[平野裕子]
日本列島において、耳飾りの習俗の存在が考古学的証拠から確かめられるのは、縄文早期末である。石を直径3センチメートルほどの環状に研磨し、その一端に切り込みを入れた玦状(けつじょう)耳飾りとよぶタイプのもので、耳たぶに穴をあけて、環の端を穴に差し込んで装着する。この石製玦状耳飾りは、縄文前期に列島全域にみられ、中期まで用いられる。まれに骨製のものもみいだされる。土製の耳飾りは、縄文中期に出現し、直径1センチメートル、長さ1.5センチメートルほどの臼(うす)形をしているもので、耳たぶの穴に挿入する。縄文後期から晩期にかけては大小さまざまの挿入タイプの土製耳飾りが主流となる。なかでも、大形のものは、直径5センチメートルほどもある滑車形をしており、耳たぶの穴を拡張してはめ込んだとみられる。滑車形耳飾りに限らないが、耳の前面に位置し、他人の目につきやすい部分には、複雑な透(すかし)彫りで飾られたものが多い。滑車形は最大径9センチメートルのものも知られる。この滑車形タイプの耳飾りをつけた土偶も、しばしば出土している。特殊なものでは、サルの橈骨(とうこつ)製の管玉(くだたま)状耳飾りが出土しているが、これを身につけた者は、集団のなかで特別な役割を担ったとみられている。縄文時代の耳飾りの装着者は、土偶の表現からみて女性が優占していた可能性があるが、男性も用いていたとみられる。小児期に耳たぶに穴があけられ、成人に達すると大形の装着が完了するという儀礼プロセスの存在は、当然考えられる。
興味深いのは、弥生(やよい)時代になると耳飾りとみられるものは、まったく確認できない。耳飾りのもつ社会的意味づけの変化によるものか、それとも石製や土製のものでなく、現在東南アジアなどにみられる竹製や木製のものに変化し、遺存例が発見しにくくなったためであろうか。その後、古墳時代中期になると、朝鮮半島からもたらされた細い金環に垂(たれ)飾りを鎖でつけたものが有力者に用いられている。6世紀後半には、直径5ミリメートルほどの銅環に金や銀のめっきをしたものや地金のままの耳飾りが普及する。人物埴輪(はにわ)の耳には、このタイプの耳飾りを装着した表現が少なくない。奈良時代以後、この習俗は、近代になるまで復活しない。
[大塚和義]
耳たぶは身体のなかでも加工がしやすいため、穴をあけてさまざまな素材、形態の飾りをつける習慣が世界中でみられる。素材には、木、木の実、花、動物の骨や牙(きば)、金属、石などが用いられる。その記号としての意味も、魔除けや呪術的力をもつ、地位や身分を示す、性的魅力を強調するなど多様である。南太平洋、ポリネシア南西部にあるクック諸島では、子供の耳たぶに魚の骨で穴をあけ、それを小枝で広げてハイビスカスなどの花を差し込む。また赤い鳥の羽根は首長がそのしるしとしてつけるという。それに対し、ある神の像は黒い鳥の羽根の耳飾りをつけている。クック諸島ではこのほかに、ココナッツの殻や、木の筒、クジラの歯なども使われている。クジラの歯のものは首長がよくつけたという。インド中央部の下層のカーストでは、耳たぶに穴をあけて飾りをつけることが、カースト社会のメンバーとして認められたしるしである。これは子供が4、5歳のときに行われるが、それ以前はカーストのメンバーとはみなされず、したがってだれからでも食物を受け取ることができる。ここでは、耳は身体の他の開口部と同様、あらゆる穢(けが)れを受け入れやすい危険な部位であり、耳飾りをつけることによる呪術的力によって防御されねばならないのである。
マレーシアでは女性のイニシエーション(入社式)として耳に穴をあける儀礼が行われていた。このときにつける大きな円形の耳輪は処女のしるしであって、未亡人が再婚するときには、この処女の花嫁の耳輪がつけられ「飾られた未亡人」とよばれる。現在ではごく小さい子供のときに耳に穴をあけるという。
世界でもっとも耳飾りに凝るのはアフリカの諸民族、とくにマサイやサンブル、トゥルカナなどの東アフリカの牧畜民であろう。彼らは子供のころに耳に穴をあけ徐々に大きくしていく。耳飾りの素材は、金属、ビーズ、動物の角(つの)や牙など多様でたいへん美しい。サンブルでは結婚に際して花婿から花嫁に贈られる品物のうちに二つの銅の耳飾りが含まれている。
また、南アメリカの民族スヤが耳飾りに与えている意義はたいへん興味深い。スヤ語で「聞く」を意味することばは「わかる」「知る」をも意味するという。社会的規範は「聞く」ことによって理解されるので、道義を知る人間は「よく聞く」と評され、規範を守らない人間は「よく聞かない」とされる。この「聞く」能力は成人の男女ともに求められ、そのしるしとして、思春期に耳たぶに穴をあけて木製の円盤をはめるのだという。ちなみに、「話す」能力のしるしとしての下唇にはめる円盤は男のみがつけるのである。
[加藤 泰]
耳朶(じだ)(耳たぶ)を挟んだり,耳朶に孔をうがつなどして装着する装身具。今日では日本でも一般にイアリングと呼ぶことが多い。装飾用だけでなく,魔よけなどの呪術的目的,また身分の象徴としても用いられ,男女共に用いた社会も多い。首飾や腕輪などと同様に,先史時代以来行われ,素材,形状ともさまざまである。古代エジプト,メソポタミアでは黄金製の各種の形状のものが出土している。ツタンカーメン王墓からは垂飾付きの黄金製耳飾が出土しており,王や貴族の権威を表す意味もあったといわれる。ギリシア,ローマでも盛んに用いられ,長い垂飾付きのものが好まれた。金,銀,宝石,ガラスなどを素材としたが,とくに金銀細工の技術が発達し,きわめて装飾的なものが現れる。またローマ人は真珠を好んで用いている。中国では戦国時代末から漢代にかけて耳璫(じとう)と呼ばれる耳飾が盛行した。耳朶に孔をうがち,鼓状や漏斗状,茸状などにしつらえた玉類を嵌装し,その中心に孔をあけて垂飾をつけており,雲南やビルマ(現,ミャンマー)などの非漢族の風習が伝わったものとされる。
中世ヨーロッパでは一時的にアクセサリーの類はすたれるが,ベールや頭巾などで頭部を覆うようになり,耳飾もほとんどつけられなくなる。ヨーロッパに耳飾が復活するのは,15世紀から16世紀にかけてイスラム諸国の風俗が,イベリア半島を経てヨーロッパに伝わったためで,再び華やかに種々のものが作られるようになり,18世紀にはダイヤモンドの細工も始まる。クリップ型やねじ留め式のものは17世紀に生まれ,イアクリップear-clipと呼ぶ。現代では耳朶に孔をあける必要はなくなったが,簡便に小孔をあける(pierced ears)技術が開発され,1970年代後半から盛んに行われている。長く耳朶に孔をあけることを行わなかった日本では,とくに区別してピアスと呼んでいる。
アジアの諸民族の間には,現在も乳児の頃から耳朶に孔をあけ,小さな星の耳飾をつける者が少なくない。一部の民族では,成長するにしたがって大きな飾りに変えていくため,耳朶の孔は,ときに直径10cmに達するものもあり,また重い耳飾を用いる場合,ボルネオの諸族にみるように,耳朶が肩にまでいたるものがある。
→身体変工
執筆者:鍵谷 明子
日本では縄文時代に石製(玉製を含む),骨角製,土製の耳飾がつくられた。石製耳飾は,前期前半期に断面円形の環状製品の一部を切り欠いたものがつくられ,前期後半には扁平な円形板の中央に円孔をうがち,一方から切込みを入れるものになるが,後に三角形に近いものやU字形に近いものなどもつくられる。これら石製品の用途は長く不明であったが,大阪府国府(こう)遺跡で人骨の耳の部分から出土して耳飾と判明した。耳朶に孔をあけ,切れ目から挿入したもので,中国古代の装身具,玦(けつ)に近い形から玦状耳飾と呼ぶ。蛇紋岩,滑石,硬玉,まれに骨角などでつくられ,晩期まで用いられる。石製の丸玉を耳飾に用いたものもある。
土製耳飾は中期に始まり,小型の臼形のものがみられ,時代とともに大型となって滑車形を呈するようになる。滑車形には環状のものと断面板状のものなど多くの変化がみられるが,上面に文様を刻したもの,複雑な透し彫のものなどがあり,最大径9cmもの大型品まである。土偶の耳の表現から,耳朶に孔をあけてはめこむ耳飾と考えられ,中国の戦国時代末から漢代にかけて盛行した耳璫と同様の方式で,耳栓(じせん)とも呼ばれる。ほかに猿の橈骨でつくった管玉状の耳飾をつけた特殊な埋葬例が,和歌山,愛知,福島で知られており,呪術者のものと考えられている。弥生時代に耳飾を用いた例は,まったく知られていない。
古墳時代中期後半から,朝鮮半島から鎖で垂飾をたらした細い金環がもたらされ,6世紀後半には金めっきした銅の棒を環状に曲げ,一方に切れ目のあるものが全国的に用いられる。なかには中空の金製もあり,銀めっきしたもの,銅だけのものなどもある。埴輪の表現で男女共に用いたことがわかるが,男性が多い。女性の埴輪にはガラス小玉で環状にした耳飾を表現したものも多い。奈良時代以後,西洋の文物が伝わるまで耳飾は用いなくなる。
朝鮮半島の耳飾は,最も華麗な金製品が数多く出土するので有名であるが,新羅,百済,伽耶にそれぞれ特色がある。高句麗は遺例がほとんどみられないので,単純な環状のもの以外詳しくはわからない。新羅の耳飾は厚さ2~3cmもある太い中空の環に,短い鎖で3本ほどの垂飾をたらしたもので,太い環に金の小粒を焼付けた亀甲文その他の文様をつける華麗なものがあり,金冠の両側に固着したものも多い。百済のものは細手の金環に3条ほどの鎖垂飾をつけたもので,伽耶のそれも百済に似るが,鎖の長いものがつくられる。日本では,伽耶系のものが各地で出土している。この種の金製垂飾付耳飾は,中国東北地方にも分布しており,アジアの東北部一円に分布しているものとして考えなければならない。
→装身具
執筆者:坪井 清足
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…古墳は,内部構造が積石木槨墳と石槨墳に大別でき,若干の石室墳も存するが,石室墳形式のうち慶尚北道高霊古衙洞や慶尚北道栄州郡順興面台庄二里などの墳墓からは蓮華文やその他の草花文を描いた壁画が発見され,とくに,後者の石扉内面右側上画に〈乙卯年於宿知述干〉の陰刻銘があって6世紀ころの制作と推定されている。副葬品のうち,最も優れた工芸作品は,金冠,耳飾,首飾,銙帯(かたい),釧(くしろ),履(くつ)などの金製工芸品である。とりわけ,慶州の金冠塚,端鳳塚,天馬塚などから発見された金冠は,新羅の金冠に独自な木を図案化したといわれる〈出字形〉をもち,新羅美術がもつ北方系要素を示している。…
…広義の衣装に含まれ,一般には身体にまとう衣服以外のものをさす。首飾,耳飾,指輪,腕輪,ブローチ,アンクレット(足輪),髪飾などがあげられる。
【呪術と装身】
人間が装身具を身につける動機はさまざまであるが,地位・身分の表示と並んで最も強い動機は美的欲求の満足,美しく見せたいという装飾本能であろう。…
…古代中国神話の怪物雨師妾(うししよう)は〈左耳有青蛇,右耳有赤蛇〉(《海外東経》)というし,黄帝と争った夸父(こほ)族は皆,巨人で耳には2匹の黄蛇をぶらさげていた。 耳の美を補完するものとしての耳飾は,世界中至るところに見られる。エジプトのミイラ,古代マヤ族の彫像の耳の穴は,いずれも耳飾があったことを示しているし,前述したササン朝の諸帝王もみごとな耳飾を下げている。…
※「耳飾り」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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